TENSEI塵語

2007年01月24日(水) きょうの橋本さんへのメール

きょうは、急いで仕事した後、「ハケンの品格」というドラマも見たし、
橋本さんに長〜〜いメールを書いたので、新たに日記を書く時間がない。
長メールは橋本日記の後半3回分の「日本語の構造」への疑義である。
彼との、なかなか一致点を見出せない部分の要点が鮮明になってきた。
今夜書いたメールにはそれがよく表れていると思う。

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      あれ?? もう終わり、、、??

富士山はどこに行ったんだーー!!??(笑)

仮説の領域に入ったので、結論が出るまで待つことにしてました。
それまでは、現に語られる日本語というものを見つめつつ、
どうでしょうか、そうでしょうか、、と、いろいろ確認していたのですが、
第7回から観念的な領域に入りましたので、
それによってどんな結論を導き出すかが大切になります。
でも、黙っていたら、あっさり駆け足で結論まで行ってしまいましたね。

「主題 - 述語」と「問いかけ - 応答」と「日本語の三層構造」という
キーワードによって、
自発的発想の自動詞についてのさまざまな考察が始まるのだろうと、
すごく期待していたのです。
それがどういう形にどういう風に行われるのか予想がつかなかったので、
なおのこと楽しみにしていました。
それなのに、結局は誰かの意見を引用して終わりだもんなぁ。。。
やまと言葉の「る」「らる」についての話を引用して、

「私たちのことばは、自然のなかで、
 自然と共存して生きていた時代に作られたものである。
 言語構造はいまなおそうした時代の遺産をうけついでいる。
 とくに私たちが母国語とする日本語は、
 こうした「自然言語」としての特徴を
 色濃く持っているのではないだろうか」

ですって??
「遺産をうけついで」はいますが、どう受け継いでいるのでしょう?
「自然言語」としての特徴を「色濃く」持っていると本当にいえるでしょうか?

第9回の後半の主張は、言語論から来るものであろうとなかろうと賛成です。
日本人がどういう精神構造を授けられて生きているにせよ、
合理性や主体性は養わなければいけないし、
日本語だってそのために十分表現できる力を持っているし、
一方また、自然を愛し、自然を畏れ、人を愛する心を失ってもいけない。


さて、ちょっと意見を述べます。

まず、「お茶が入りましたよ」についてです。
確かに僕もこう言います、特に「お茶」の場合には。。。
「お茶入れたよ〜」と自然と出てきます。
でも、コーヒーの場合はそうでもないのです。
「コーヒー入ったよ」「コーヒー入れたよ」はそれほど差がない。
こういう時は「入ったよ」と言うのが普通という感覚もない。

これからお茶の用意をする時に、「お茶が入ります」とは言わない。
「お茶でも入れましょうか」「お茶入れますね」などと言います。
さずがに、この段階では自分の行為として語るしかないので、
「お茶を入れる」という形式の言い方になります。

長くなりすぎるので例をこれだけにしておきますが、
「お茶が入った」的な表現を好むのは、ひとつには、ラクだからです。
「お茶を」と言うよりも「お茶が」の方がラクだというところから、
「〜が入りました」が言い方として定着するという可能性は大いにあります。
また、さらに言えば、「我」というものを露骨に表さない
謙虚というべきか臆病というべきか、どう言うべきか定かでないのですが、
しかもそれが、社会のあり方から育まれたのか言語環境の所産なのかも
定かではないのですが、そういう「我」を露骨に表さない精神で
言語表現をするのに、便利でラクな表現方法であるとも言えます。

こんなのは、まったくおもしろくない言語論ですね〜。
でも、言いたいのは「お茶が入りました」「赤ちゃんが生まれた」的な表現から、
「自然と共存していた時代」の「遺産をうけついで」「自然言語」としての
特徴を「色濃く持っている」とは、そう簡単には結論できないということです。
それは非常に趣深い解釈であることは、しっかりと認めます。
そういう「自然言語」としての特徴が、我々の日常の言語活動にはないが、
言語自体に内包されて息づいているのだ、、、とね。

しかし、長い年月の間に、本来の精神が失われて伝わることは珍しくない。
それは、日本国憲法のたった60年を見ても感じられることですし、
1000年前の単語が、今どう使われているかを見てもわかることです。
また、言葉の歴史は、言葉は安易な方向に流れ、変化することを物語っています。
英語も安易な方向に変化した、その代わりにSVO型の語順が定着した、
日本語も同じ方向に進みながら、形式を定着させる必要はなかった、
その代わり、単語にくっついて働く助詞などの用法はますます多義になった、
と僕は見ています。
日本語が昔から今までうけついている確実な遺産は、
言わなくてもわかることは言わないですむことと、
それも含めた、表現の多様性です。
俳句や短歌なども、そうして受け継がれてきた財産です。

・・・本当につまらない考え方ですね。
僕は橋本さんを批判しているのではなくて、
そうまで確信しているならはっきりわからせてくれー、と言っているのです。
そして、この単なる元同僚ごときに疑問を抱かせる程度で済ませないでくれー、
という思いのためです。
もしも、もうそれは信仰の領域だ、と言うのでなければ。。。


これだけでもうだいぶ長くなっていしまいました。
でも、簡潔に書いておきましょう。

有森さんの「自分をほめてあげたい」が名文句になったのは、
僕も含めて多くの国民にとっては、SVO構文だったからではありません。
「信じられません」「夢みたいです〜」というような、
謙遜した言い方ではない、新しい表現だったからに他なりません。
「他動詞使ってんじゃん!!」なんて驚きをもった人はごく一部です。
本来の日本語と違う! と違和感を覚えた人はいなかったのでは?
それでも、橋本さんが書いていた
「この言葉を語った彼女の開放的で前向きな積極性に多くの人たちは好感をもった」
という結論は同じです。

英語圏の人たちも、「There is 〜」はそれほど驚くべき表現だったと
告白してるのでしょうか?
「There is 〜」ゆえに名言だと、、?
あまりにも簡素で率直だから名言になったのではありませんか?

「そうかもしれないが、潜在的に文の構造に驚いているのです。
 そう信じましょう」と言うのでなければ。。。

(ちなみに、現代のネイティブの英語にはまったく疎いのですが、
 最近は mpunten と綴るのですか?)


また、第7回ではこんな疑問も生じていました。

 (私があなたに伝えたいことは)
 −−−−−−−−−−−−ーーー
      象が 草を
    −−−−−ーーーー
      食べている
 ーーーーーーーーーーーーーー
     (ということです)

だったら、「象は鼻が長いんだよ」についても

 (私があなたに伝えたいことは)
 −−−−−−−−−−−−ーーー
      象は
   ーーーーーーー
      鼻が
    −−−−−
      長い
 ーーーーーーーーーーーーーー
     (ということです)

と、多層構造になってしまう??

もちろんこの場合は「象の鼻が」と一段に書き換えるのだと思われますが、
せっかくすっきりしていた積み木の構造が、
こうして(  )付きの段を許容することによって、
だんだんと何のためにこの構造を見出したのか曖昧になっていくようで、
心配してしまいました。
あの簡素な二層構造、二塁打級に気に入ってたんだけどなー。。。


・・・というわけで、とてもとても、あれで終わらせられませんよ(笑)


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