自分の言葉に客観性をもたせようとすれば、 物や事象、人、また我々の中にある観念などをつぶさに観察せねばならず、 自分が語ろうとする言葉をも対象として検討しなければならない。 いったい我々の頭の中で、どうやってこんな作業が可能になっているのか、 さっぱりわからない。 不思議だが、そう不思議に思っているときもそのように働いているのだ。 そういう努力をしつつ語る言葉も、やはり主観的であることから免れない。 しかし、これこそ、共有の欲求のもっとも強い表れだ。 我々の授業も、実はそうなのだ。 ニュースや新聞の語る言葉も、口調は改まっているが、 そうでないとは言い切れない。
言葉は、形なきものを形あるものにする欲求の表れということもできる。 言葉にすることによって、初めて物や事象が形をもつ。 ただ目の前をぼんやり素通りしていく事象は、存在しないも同然だ。 確かに何物かが存在するのかも知れないが、私には無意味な存在だ。 この意味では、心で思っているだけの言葉も大いに意味を持つ。
しかし、我々は何らか語らずにいられない。 心の中の言葉は、脈絡も定かでなく、落ち着くところを知らないからである。 それは、物や事象をとらえてはとらえ損なう。 我々は語ることによって、それを形あるものにする。 より明確な形にするためには、工夫や努力が必要である。
また、言葉は、橋本さんが言うように、応答であるとも言える。 ある物を見て、何かを語りたくなるのは、何らか問いかけられているのだ。 もっとも単純なパターンは人から質問されて答える場合だが、 何気ない一言も、思わず出た感嘆も、勝手なおしゃべりも、 その話題の対象に動かされて応答しているのだと言える。
しかし、その問いかけは、何らかの問いかけであって、 当然のことながら、先に問いかけ(質問)があるわけではない。 我々は、物や事象が我々に何を語りかけたかを知らない。 ただ、それらに促されて、思ったことを語るのだ。
これは、単なるメモである。 我々が、喋ったり、語り合ったり、書いたりする行為を、 どうとらえるのがもっとも素直なとらえ方なのかなー、とふと思って、 思いついたことを並べてみた。 あまり脈絡にこだわらず書いたので、抜け落ちだらけだろう。。。 それは、疑問への応答でもあるし、形にしておきたいからでもあるし、 後日読み返す自分と話題を共有したいからでもあるし、 こんなところに書くことからして、誰かと共有できることを期待している のかもしれない。
他に何かないかなぁ、、、と思ったがもう思いつかなくなったのでやめた。 とりあえず、上のどの見方も、話したり書いたりする言葉だけでなく、 音楽や演劇や絵画や、さまざまな表現行為についても言えそうだ。
(おまけ) 先週の中ごろに、何となく舌の右側の中ほどがヒリヒリするので、 不思議だなぁ、と思っているうちに、右の1番奥の歯にかぶせてあったのが 取れているのに気づいた。 ぜんぜん気づかなかった、、、ということは飲み込んじゃったということか? さっそく歯医者に電話しようとも思ったが、行けるめどが立たなかった。 いつ行くべきか迷っているうちに、今朝、痛みが始まった。 まだ痺れるような鈍痛に悩まされる程度だったが、 午前中に集められた授業を立て続けに片づけてから電話した。 夕方遅くを希望して交渉したけれど、3時45分しか入れられないと言う。 幸い、午後の授業のない日なので、バタバタと仕事して、走った。
治療中にふと思い出したのは、これは前にも取れた、 あの時は、取れたときに気づいて、すぐに救出して、 それを持ってその日の内に歯医者に行ってかぶせてもらったことだ。 2002年の8月6日のところに書いてあった。4年半前だ。
|