昨日もきょうも、新聞読んだら書きたくなることがいくつかあったんだけど もう時間も遅く、今から読み返しつつ書くのは無理なので、 きょうもっともよく考えたことの記録として、コピペで済ませちゃおっと。 全部読むのはめんどくさくても、最後の何行かだけは読んでね。
(昨日のメールに対する橋本さんのコメント) とても共感をもって読みました。もともと日本語はtenseiさんがここに書かれたような、はなはだ自由度の高い融通無碍な言語として理解されていたし、現に、私たちの感覚としても<そのようなもの>として実感されているのではないでしょうか。
《中略・・・・この日記は原稿用紙20枚分以内らしい》
また話がそれそうなので、本題にもどしますと、現在行われている学校文法について、私はかなり批判的な意見を持っています。私は個人的に「主語」は「主格補語」でいいように思っていますが、ただtenseiさんも言われているように、「主語」を捨てることについては、たしかに現場の抵抗がつよすぎると思います。
三上さんや金谷さんの「主語を廃止する」という過激な戦略が、日本の国語教育の現状から見て、はたして現実的かという疑いを持ちます。もう少し現実的な戦略があるのではないか、と思っています。
また、「日本語文法をどうするか」という問題については、議論を生産的にするためには、いくつかの次元に分けて考察したほうがよいとも思いました。
(1)日本語とは何か(FACTのレベル) (2)これをどう解釈するか(言語学のレベル) (3)文化的なレベル (4)政治的なレベル
これまでの私の議論は、この4つのレベルが混在していたきらいがあります。(1)のレベルを飛ばして、(3)や(4)に言及したため、議論が錯綜したかもしれません。この点、おわびします。
(さらに付け加えられたコメント)
《前略》
しかし、金谷武洋さんの「日本語文法の謎をとく」(ちくま新書)で紹介されている伊丹十三さんの文章は、もっと単純な悪文です。彼は翻訳出版した「サローヤン原作の「パパ・ユーアー クレージイ」(新潮文庫)のあとがきにこう書いているそうです。
<僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」というような文章に読者がどこまで耐えてくれるか私にも自信はないが、しかし、仮にこれを「ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った」という風に訳すなら、この小説はやさしくて物わかりのいいお父さんの子育て日記という水準にとどまってしまっただろうと思われる>
金谷さんこうした伊丹さんの英文直訳式の訳文について、「こんな文は読者にとって苦痛以外の何者でもなく、耐えられるものではない。そもそも何のために耐えなければならないのだろう」と書いています。
伊丹さんのポリシーは主語のみならず、人称代名詞もすべて「省略してはならない」ということのようです。しかし、彼の文章は日本語ではなく、日本語の仮面をかぶった異世界の言語でしょう。
金谷さんは英語は「主語」中心の「誰かがどうする」の「する言語」であり、日本語は「述語」中心の「何かがどうなる・どうする」の「である言語」だといいます。
「する英語」を、そのまま翻訳すれば、たしかに一見「する日本語」になります。これを悪文だと見ないで、「ある日本語」を「する日本語」に置き換えることをもって「日本語の革新」と見るいわゆる「進歩的文化人」にも困ったものです。
川端康成がかって「日本語を滅ぼすものは、岩波文庫の翻訳書だ」と言っていたのを思い出しました。西洋哲学の翻訳など、一部の例外をのぞいてとくにひどいと思います。
(私の新たな質問メール)
「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」
この文は最初読んだとき、「文字」が目の前を通り過ぎただけでした。つまり、まったく意味が伝わらず、普通は浮かぶイメージが何も浮かばない。
「ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った」を読んでから、もう1回読み返したら、やっと意味がわかりましたが、 相変わらずイメージを浮かべにくい。文字が固まって並んでいるという感じがします。
うんと前の話になりますが、どちらが角川文庫でどちらが新潮文庫だったか、高校時代に買った「若きウェルテルの悩み」を、何回読んでも途中で挫折してたのにある時本屋でもう一方の文庫を立ち読みしてみたらすんなり言葉が入ってくるので買って帰ってそのままさっさと読み終えた経験があります。
その時、もう一度、それまで持っていたのを読むと、やはり読みづらい。翻訳の良し悪しの、もっとも極端な例として覚えています。どこがどう違うか、検証してみてもよかったのですが、 ドイツ語の原文を持っているわけじゃないので断念しました。
さて、きょう新たに直面した謎はこれです。
<金谷さんは英語は「主語」中心の「誰かがどうする」の「する言語」であり、日本語は「述語」中心の「何かがどうなる・どうする」の「である言語」だといいます>
こんな風に特徴づけることができれば、丸山真男にも結びついて、なかなかおもしろいことになるぞ、とも思うのですが、、、 どうしてもこの「日本語は『である言語』」というのがわからない。
「英語は『する言語』」というのは、何となくわからんでもない気がする、程度の実におぼつかないフィーリングで受け入れてもいいのですが。。。
(それに対する橋本さんの返事)
<どうしてもこの「日本語は『である言語』」というのがわからない。「英語は『する言語』」というのは、何となくわからんでもない気がする、程度の実におぼつかないフィーリングで受け入れてもいいのですが。。。>
金谷さんの「日本語文法の謎を解く」(ちくま新書)の副題はずばり、<「ある」日本語と「する」英語>になっています。まさにtenseiさんの質問に答えるために書かれたような本です。そこで、金谷さんは、いくつかの典型的な英文を取り出して、日本文と比べています。参考までに直訳文もつけておきます。
I have time.(私は時間を持つ) (時間がある)
I have a son.(私は息子を持つ) (息子がいる)
I understand Chinese.(私は中国語を理解する) (中国語がわかる)
I see Mt.Fuji.(私は富士山を見る) (富士山が見える)
I have seen it.(私はそれを見たことを持っている) (見たことがある)
I hate cigarettes.(私はタバコを嫌う) (たばこが嫌いだ)
これらを見ると、「私は何々をする」という英語の「他動詞文」が、日本文では、いずれも「私は何々である」式の「自動詞文」で表されています。
一般に日本文ではこのように「行為文」ではなく、「状態文」であらわす傾向があります。これを、「する英語」と「である日本語」という風にいいあらわしたわけです。
日本人は車窓から富士山が見えたとき、「富士山が見えた」といいます。これを英語に直訳すると、
Mt.Fuji is visible.
もちろんこれでも通じるかもしれませんが、ネイティブは「変だな」と思うでしょう。やはり、「SVO」を使って、
I see Mt.Fuji.
こう言うべきでしょう。もちろん、英語にも自動詞を使って、状態をあらわすことはあります。「SVC」の構文がまさにそうです。
You are nice. (君はナイスだ)
しかし、こうした文章も、現代英語では少数派だと思います。多くの英米人はたとえばもっとパンチのある「SVO表現」を好むのではないでしょうか。たとえば、次のような表現です。
You have a very nice bady.
また、「SVC構文」でも英語では必ず主語を使います。たとえば、迷子になって、場所を聞くとき、日本人は「ここはどこ?」と聴きます。これも直訳すれば、
Where is here?
ですが、通じないでしょう。
Where am I?
しっかりと、「I」を使う必要があります。ところが、私も含めて、とっさにでてきません。「I」という主語を使う習慣がないからだと思います。ところで、神谷さんは「主語」の定義として、次の3つの条件をあげています。
(1)文頭におかれる。 (2)不可欠の要素である。(省略できない) (3)動詞に活用を起こさせる。
英語はこの3条件を満たす「主語」が存在しますが、日本語ではこの3条件を満たす「主語」は存在しないというわけです。かわりに「主格補語」が存在しますが、これは文頭以外にもおかれ、ふつうは省略され、動詞に何ら活用を与えません。
なお(2)と(3)はお互いに緊密に関連しています。 「主語がないと動詞が決まらない」からです。だから、(3)がある以上、主語を省略することは、命令形のように明らかに「I」が主語であるような場合を除いて、どうしても不可能になります。
なお、最近は「する日本語」もかなり優勢になってきました。いちがいに日本語の性格を「ある日本語」だと断定することにも違和感があるかもしれません。また、丸山真男の「である論理からする論理へ」にも見られるように、「ある日本語」から「する日本語」への転換をよしとする風潮もあります。私はこうした日本語の他動詞化をれを「SVO革命」などと呼んだりして、一部肯定しています。
個性を重んじ、主体性を重じる人にとって、「する論理」は「ある論理」よりもよほど魅力的だと思うのです。世界の現状を変えたい人にも「する論理」は魅力的だと思います。
ごめんなさい。脱線して余計なことを書いてしまいました。たぶん、「である日本語」について、まだ十分な説明になっていないと思います。思い切り突っ込みを入れてください。お待ちしています。
(さらにその補足説明)
まずは、訂正です。
I have seen it.
を「私はそれを見たことを持っている」と書きましたが、これは次のように書くのが正しいようです。
(私は見られたそれを持っている)
もしくは、もう少し分かりやすい日本語に直せば、
(私はそれが見られたことを持っている)
その理由は英語の過去分詞seenはほんらい「受身」の意味だからです。もう少し分かりやすい例を、金谷さんの「日本語文法の謎を解く」から引いておきます。
<(3) The hunter has killed a bear.
(3)は、その元となっている発想から言えば、「猟師は殺された熊を持っている」という意味の「所有文」である。それは過去分詞killedをカッコに入れてみると、
The hunter has (killed) a bear.
となるのでよく分かる。そしてこの文中「has」は現在形であるから、「現在完了」と呼ばれるのである。
つまり英語では過去形も現在完了形も「行為者の表現」である。その違いは過去形が行為文、現在完了形が所有文であるというだけだ>
なお、過去形のkilledは語源的にはkill−did「殺すことをした」だそうです。
日本語の場合はどうか。「殺した」は「殺したり」さらにさかのぼれば「殺してあり」から変化しました。ここで「て」は完了の「つ」の連用形でその意味は完了形です。つまり、その意味は、「殺した状態で今ここにある」ということで、英語の「現在完了文」と似ています。これを受けて、金谷さんは、こう書いています。
<これで明らかなように、現代日本語の過去形「殺した」も動詞「ある」が発想の基礎である。本来、日本語の過去は、過去でなかったことになる。何と「現在の存在文」であったのだ。
日本語話者はもう無意識で使っているのだが、驚くべきことに、日本語の過去動詞文において、「行為者」がやはり消されてしまうのである。「だれがどうした」ではなくて、「何がそこにある」という現在の「存在文」が使われるからだ。・・・
所有文を存在文であらわす日本語、かたやそれとは逆に存在文を所有文であらわす英語やフランス語、スペイン語。この辺りはみごとに世界観が対照的で面白い>
私たちの意識は、文明が発達するにつれて、「自然中心の発想や世界観」から、しだいに「人間中心の発想や世界観」へと変わってきました。そして、言葉もこうした文明の発達にあわせ、あるいはこれとの相互作用の中で、「自然中心から人間中心」へと変わってきました。
その変化の一番早いのが英語やフランス語で、もっとも遅い部類が日本語ではないでしょうか。人間中心ではなく自然中心の発想や世界観が日本語の構造の中にまだまだ深く根を下ろしています。
たとえば、私は妻から、「お茶を入れましたよ」と声をかけたら、あまりうれしくないと思います。「入れる」というのは妻の行為を際立たせる他動詞です。なんだか押し付けがましい感じがします。
ところがもし、「お茶が入りましたよ」と声をかけられたら、すんなりと「ありがとう」という言葉がてきます。「入る」というのは自動詞で、しかもその主格は「おちゃ」ですから、行為者が消えています。私たち日本人はこれをとても奥ゆかしく、快く感じます。
ちなみに自動詞というのは「英語式日本文法」(学校文法)では「直接目的語をもたない動詞」ということですが、金谷さんはこれはまちがいだと書いています。なぜなら、日本語の自動詞は他動詞同様に目的語を持つことが多いからです。
子供を授かった。(他動詞:授ける) 英語を先生に教わった。(他動詞:教えた) 車は角を回った。(他動詞:回す)
金谷さんは、自動詞と」他動詞の違いは、本来はこう考えるべきだと書いています。
<自動詞と他動詞を比べた場合、人間の力の及ばない自然の勢いを表す方が自動詞、意図的な行為を表す方が他動詞である>
さらに自動詞は語尾にすべて「ある」を含み、他動詞も本来は「する」を含んでいたそうです。つまり、自動詞と他動詞の違いは「ある」と「する」という2つの基本動詞の違いだと説明しています。そしてとくに大切なのは、日本語では「ある」が「する」よりもはるかに好ましく、価値あるものとして考えられてきたということです。
これと対照的なのが、人間の行為に価値をおく、現代の欧米語です。英語の場合は「DO」が万能の動詞として発達しました。これは驚くべきことですが、英語では「DO+名詞」でほとんどすべてのことが言い表せてしまいます。
ホームステイで「皿を洗うよ」と言いたければ、
I’ll do the dishs.
もしくは、皿の山を指して、
I’ll do then.
といえば言い訳です。金谷さんはこれに対して、日本語におけるスーパー動詞が存在をあらわす「ある」だといいます。
「我輩は猫だ」を強調するには、文末に「である」を付け加えて、「我輩は猫である」とすればいい。英語の場合は、動詞を強調するにはその前にDOを付け加えます。英語が「する」言語で、日本語が「ある」言語だということがこれでもわかります。
と、いろいろと金谷先生の受け売りを書いておきました。参考にしていただければ幸いです。
(それに対する私のメール)
最初は「何じゃそりゃ?」と思っていた金谷説も、 だいぶ「な〜〜るほど〜」と思えるようになってきましたよ。 主語なし説についても、
・・・・・・・・・・・・・・・・・ >神谷さんは「主語」の定義として、次の3つの条件をあげています。 > >(1)文頭におかれる。 >(2)不可欠の要素である。(省略できない) >(3)動詞に活用を起こさせる。 > > 英語はこの3条件を満たす「主語」が存在しますが、日本語ではこの3条件は満た >されず、「主語」は存在しないというわけです。かわりに「主格補語」が存在します >が、これは「文頭以外にもおかれ、ふつうは省略され、動詞に何ら活用を与えません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
最初からこういう意味だと説明してくれれば、遠回りしなくてすんだのに。。。 定義は大事ですよ、定義は。 ま、遠回りも決して無駄ではないと思いますがね。。。
(遠回りと書いてふと思い出した関係ない話ですが、 桂米朝の落語に「近回り」という語がよく出てきて、 落語家が笑わせるつもりで使っているのではないのですが、笑えます。 「さ、近回り近回り、、、」って、何ともいえぬほのぼのした雰囲気、、、)
「である言語」についても、理解度の円グラフが完全に閉じちゃってたのが、 半分くらいは開いてきました。 な〜るほど〜、、、確かにそう言えなくもないなぁ、、と思わされました。
まだ、英語の現在完了形の説や、日本語の「た」の語源に関わる部分には かなり疑わしさを感じているし、他の用例はどうだ? と疑り深い。。。 「た」についてはとにかく、「たり」の中の「あり」は、 使った時の気持ちから言うと、今の「ある」よりは「いる」だもんなぁ、、、 と思ってしまいますから、ちょっと説得力が弱い。 自動詞として挙げられてる「授かる」「教わる」は、え?と思って 辞書で確認してみたら、他動詞に分類されているし。。。。 それにまた、「自動詞は語尾にすべて『ある』を含み」と言われると、 「行く」や「咲く」のどこに「ある」があるのだろう? と、謎。。。
それに、まだ、「する」と「である」で対比する意味があるのかな? と 疑問に思っているわけです。 橋本さんは「である言語=自然を尊重する」と意味を見出しているようですが。
かなり説得力があるのがこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ たとえば、私は妻から、「お茶を入れましたよ」と声をかけたら、 あまりうれしくないと思います。 「入れる」というのは妻の行為を際立たせる他動詞です。 なんだか押し付けがましい感じがします。 ところがもし、「お茶が入りましたよ」と声をかけられたら、 すんなりと「ありがとう」という言葉がてきます。 「入る」というのは自動詞で、しかもその主格は「おちゃ」ですから、 行為者が消えています。 私たち日本人はこれをとても奥ゆかしく、快く感じます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自動詞だから他動詞だからということはひとまず置いておいて、 「人間の力の及ばない自然の勢いを表す」言葉が 日本人には「好ましい」言葉として多用されていることは確かです。
僕はまだ、英語等の言語は「直言的」というか「直辞的」というか、 いい言葉が見つからないのですが、、、それに対し、 日本語は「婉曲的」という段階にとどまっています。 そう目新しい対比でもないと思いますが、 とりあえずこれだったら、おおよその日本語表現は説明できそうです。 この「婉曲」というのは、「遠回しに言う」意味もあれば、 「露骨に言わない、いわばクッション」という意味も含みます。 「これだけしか言葉にして言わないが、あとは状況から判断してくれぃ」 というような語り方を、ほとんど意識もせずに行っている言語習慣、 これもいわば「遠回しな表現」です。 「自分がこうする」よりも「何ものかからこうされる」表現が好まれるのも 「婉曲的」言語環境に慣らされて来たからです。 こういう言語環境で生きていると、精神も婉曲的になりがちです。。。
あれあれ、橋本さんとは違った方向に行ってしまいそうです。 引き止めて下さいね。
きょうの結論は、「である言語」というよりは「ようだ言語」であるようだ、 ということになります(笑)
(これで、きょうの問答のコピペは終了)
・・・というわけだ。 この最後の1文が、我ながらたいへん気に入ったので、 これですっきり眠りにつけそうだけど、まだまだ問答は続きそうだなぁ。。
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