TENSEI塵語

2007年01月03日(水) 日本語の特性

29日から橋本さんと日本語文法をめぐる意見交換をしてきた。
彼は事情あってBBSを閉鎖して独り言BBSにしてしまったので、
私がメールで送るとその独り言BBSにコメント付きで掲載して返事代わり。
しかし、彼が独り言BBSに転載するというのは特別待遇だと思われるので
調子にのって、正直な感想と意見・疑問を送り続けたのだった。
そのおかげで、とてもいい勉強をさせてもらった。

きょうはこの6日間でもっとも長いメールを書いた。
私が、今まで日本語というものをどうとらえていたか、
こういう「対話」を通じて、何となく言葉にできそうな気がしてきたからだ。
文法とか文の構造がどうだとか言う前に、我々はどのように言葉を使い、
話し、書いているか、から出発するということである。
例えば、英語の「I love you」にあたる日本語の基本文型は
「私はあなたを愛する」ではない。
古今東西、そんな日本語を使った日本人が何人いるだろうか?
「好きよ」「あなたが好きなの」「君が好きだ」「愛してる」だったら、
大いにありうるけれど、「私はあなたを愛している」など殆どありえない。
それが基本文型だとしたら、それは外国語文法をもとにしたか、
精神の欲求によって作られた架空の模範に過ぎないのだ。
いわば、人為のイデアとも言うべき、不思議な代物である。
日本語はそんな律儀な言語ではないのだ。
だからこそ、何ともいえぬふくよかな表現が可能なのだ。
その代わり、この曖昧で自由な言語習慣と伝統が、
日本人の精神世界の悲劇的な要素を形作っているかもしれないのだ。



(以下、橋本さんへのきょうのメール)

次の部分、わかりやすいですね。
最初からこれを教えてもらえば、もうちょっと入りやすかったのに〜、、
いや、今までの蓄積があるから、これをなるほど!と思えるのかな?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (あ)名詞文:名詞+だ(好きだ)
 (い)形容詞文:形容詞(楽しい)
 (う)動詞文:動詞(笑った)

 ここで2つの考え方があります。1番目は、たとえは「好きだ」というのは、「私はあなたが好きだ」という文型の文章で、「私は」(主語)と「あなたが」(目的語)の二つが「省略」されたものだという考え方です。これは英語の[SVO文法」を基本にした考え方を日本語に適用したもので、今日私たちが習っている「学校文法」です。

 ところが、ここにもうひとつ別の考えがあって、はじめから主語や目的語を除いた「すきだ」だけを基本文にするという方法です。これを基本にして、状況に応じて「私は」とか「あなたが」を補っていくわけです。この立場に立つと、「主語」も「目的語」も「補語」だということになります。

 あるべきものがない「省略」された文だと見るか、もともとこれが基本で、必要に応じて「補う」のが日本語のあり方だと考えるのか、この2つの立場があり、どちらが日本文法としてふさわしいかということだと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うーん、、、これだったら、「主語」じゃない、「補語」だ、というのも
それほど抵抗なく受け止められそうです。
「修飾語」だという考え方にも通じますね。


外国人への英語教育には役に立ちませんが、
僕のいいかげんな文法観をまとめておきます。

先日来、僕自身も「省略」という語を使いながら書いていましたが、
それは、いわゆる「基本文型からの省略」という意味ではありませんでした。

日本語にはいわゆる基本文型などない、
よりわかりやすく伝わりやすい語順があるだけだ、
その代表的な語順に整理されたものが
時に基本文型のように提示されたりするが、
それはあくまでも、代表的な模範例、であって、
そう言わなきゃならぬものでもない、
そういうよりわかりやすく伝わりやすい語順パターンは
幼少時からの言語体験の中で、何となく習得されていくものだ。。。
まずここまで、、、あたりまえのことを書いてるだけですね?

これが、出発点です。
英語など、基本文型がきっちり伝わっているのは、
みんながそのようにきっちり使っていて、
それを聞いたり読んだりしながら習得していくためでしょう。
語自体に〈格〉が備わったりしてるのも、安定している強みかもしれません。
日本語の場合は、部品をつないで〈格〉を作るので、自由度が高い。
日本語では述語(あるいは結論)が最後に来る、というのが常識ですが、
そうとは限りません。言いたければ先に言います。
「きれいだなぁ、あの夕焼け」「ひどいねぇ、その顔」
文法ではこういうのを倒置法と言いますが、
これは模範的語順に対する倒置に過ぎぬので、分析的判断によるものです。
実際には、これも、よりわかりやすく伝わりやすい語順の一種です。
そして、心から思いが溢れてきた時にはこういう順に言葉が出るのです。
ま、さすがに英語などでもそんな時いちいち「It's〜}なんて使いませんね?

幼少時からの言葉の習得の中で、さらに身につけているのが、
状況(場)の中で「了解」できていると直観したことは「省略」するということです。
(このことを表現するのはたいへん難しい、、、)
この「省略」は文法上言うべきであるのに言わない、という意味でなく、
その場の中に存在し、心や雰囲気の中でわかっていることなのだけれど、
その場の中にいる人にも了解されていることはわざわざ口にしないということです。
だから、「省略」という語は適切ではありませんね?
あえて言えば、状況の中にある要素からの「省略」といべきかな???
そんなことを、客観的思考によってでなく、やってるわけです。
その代わり、相手も了解していると思ってたらそうでもなくて、
「誰が?」とか「何を?」と聞き返されたりもしますが。。。

書き表すのはなかなか難しいですが、これも、
あたりまえのことを書いているに過ぎませんね。
ただ、言いたかったのは、主語がなかろうと目的語がなかろうと、
助詞がなかろうと述語がなかろうと、、、そのセンテンスには、
基本文型から○○が省略されている、という必要などないということです。
こうあるべき基本文型など、そもそもないのですから。。。
もっともひどい言い方をすれば、
でっち上げた規範から欠陥を指摘するような
そういう論になってしまうと思うのです。

(こう書くと、いかにも文法は無駄なものだと言っているように
 思われそうですが文法研究全体を無駄だと思っているわけではありません。
 助動詞とか助詞とか、実際に使われてるのを分析研究してもらってるのは
 たいへんありがたいことだと思っています。しばしば参照してますし、、)

この、了解されていることは言わずにすませる言語習慣・伝統、、、
こういう僕のような言い方でないにしても、これに似た点が、
しばしば、文化論のネタにされてきたものですよね?
もちろん僕も、ネタにできるんじゃないかな、と思ってますが。。。


主語は文の中にあることもあれば、ないこともある、
文の中にはなくても、その文が生まれた状況(場)の中にある。
それが、「ない」とは何だ! というのが最初のいちゃもんでした。

今ではこう言いたいと思います。
日本語には、「文の構造上不可欠な要素」という意味での主語というものは
存在しない。
だから、この文には主語が省略されているとか、
「〜は}{〜が」の形を取るのが主語だから、、、とかの「象は鼻が長い」
論争とか、そういう形式的議論は無意味です。
そういう、文の構造上の形式的な主語でなく、実質的な主語は必ずあります。
その文の中にはなくても、「文脈」の中に必ずあります。
この「文脈」というのは、文がいくつか集まった文章の流れだけでなく、
言葉が発せられた状況(場)も含んだ意味での「文脈」です。

日本語とはこういうものだと思いますので、
唯一無二の文法理論を確立し押しつけるよりも、それぞれの立場に合った
文法理論を作って利用すればいいのではないかと思います。
それでそう困った事態にはならないと思います。

ちなみに、我々、高校生に国語を教える者にとっては、
主語 - 述語というのはわりと便利な用語でもあります。
主語と言っても、主部と言っても、主格と言っても何でもいいのですが、
「〜だ」{〜した」等々の〈主〉にあたる部分の名称です。
やはり、単なる修飾語のひとつとか補語のひとつとかではなく、
それらとは別格に何らかの名称がほしいと思います。

評論文などを読むときに、時折やたらと長い文があります。
いわゆる挿入句だらけの文であったり、それが更に複文になったりしています。
生徒はそれだけでもう頭がくらくらして、意識が文の中に入りません。
そしてまた、その挿入句に謎めいたことも書いてあったりする。。。
そんな時に助言すべき一番よい手は、「〜は」「〜だ」の部分を
まず押さえさせることです。
英語などだと、たいていこういうのは先にまとめてあるものですが、
日本語ではうんと離れていたりします。
そうしてそれだけ抽出してみると、案外言いたいことが見え始めるものです。
そんなこともあって、主語とか、その種の概念を捨て去られてしまうと、
我々はちょっとめんどうなことにもなります(笑)


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