忙しい週なのだが、きょう最終日実施の古典の試験も 採点をし終えて帰ってきた解放感のも手伝い、 「ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド」というインタビューDVDを見た。 実に難解な語り口(字幕の翻訳がよくないのかも)のインタビューだけだが ついつい番組全部と、特典映像のインタビューも全部試聴してしまった。 3時間近くを費やした。 持ち帰った仕事はやらずじまいである。
「ダ・ヴィンチ・コード」で、歴史的真実として語られた イエスにはマグダラのマリアという妻(または愛人)がいて、 マグダラのマリアはイエスの子を生んだという〈仮説〉は、 私にとっても衝撃だった。 マイナス的な意味での衝撃でなく、喜ばしい意味での衝撃だった。 これには、まだ10代だったころの経緯がある。
中学時代に聖書を読み始めたのは、映画「ベン・ハー」の影響である。 聖書について説いた解説や、トルストイの民話なども大いに参考にして、 聖書を読んでいた。 当時有名だった2つの組織の集会にも誘いを受けて行ってみたが、 これらは、1、2度でイヤになってやめた。 最初は敬虔な宗教的境地みたいなものに憧れていたと思うのだが、 やはり、人格的にして絶対的な神という実在は、心底信じられなかった。 それは、仮想的だが人間が求めずにはいられない存在に過ぎなかった。 それよりも、関心は、聖書の中ですばらしい言葉を語っている、 思想家としてのイエスに集中していった。 高校から大学にかけて、人間としてのイエスはどういう人だったのか、 その実像に何とか迫りたいものだという思いに駆られていた。 あのころはインターネット検索などという機能もなく、漠然としていた。 かろうじて遠藤周作らのおかげで、とりあえずの「人間イエス」像を描き、 何となく満足して、探求は中断していた。。。
「ダ・ヴィンチ・コード」に始まった問題提起は、 次々に驚くべき仮説的実像をもたらしてくれている。 それらは私にはビンビン響いてくるほど刺激的なのだ。
今夜はもう遅いので、この辺でやめておこう。
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