夕刊の立花隆の文章は、痒いところをかいてくれるような文章だ。 見出しからして、ズバリと核心を衝いている。
「基本法には普遍的価値 改正論の裏に国家主義」
その要旨はこんな感じだ。
今、さまざまな教育問題が浮かび上がり論議されているが、 それは「教育基本法改正」は「必要だ」という空気を作りたいからだろう。 しかし、それらの諸問題は教育基本法とは別次元の問題であり、 教育基本法を改めれば解決するというものではない。 教育基本法に書かれていることは、 人類社会が普遍的価値として認めるようになってきた事柄であって、 それをバタバタと深い議論もしないで改める理由がどうしても見出せない。 「改正」を急ぐのは、「憲法改正」を最大目標としている安倍内閣にとって 憲法と一体となってそれを支えている教育基本法が邪魔だからだろう。 しかし、教育基本法ができたのは、 戦前の日本では、教育が「教育勅語」に支配され、国家の手段になっていて そのような国家目的の奴隷的状態から教育を解放するためであった。 教育の目的はそうではなく、ヒューマニズム、「人格主義」である。 つまりは、個人の尊厳であり、基本的人権であり、自由、平和である。 「国家主義者安倍首相は再び教育を国家への奉仕者に変えようとしている」
私自身もいつも書いていることだが、我々が忘れてならないのは、 憲法に書かれていることも教育基本法に書かれていることも、その基本は 人類のめざすべき普遍的価値であるということだ。 自民党の国家主義的政治家たちはいつも、日本人の手で作られたのではない ことを理由に挙げるが、そんなことはまったく問題ではないのだ。 当時の日本人の中に、この憲法の精神で草案を作っていた人たちがいるとか いないとか聞いたこともあるが、仮に日本人の手によるものでないにしても かえってそれが幸いして、理想的で完成度の高い憲法になったと言うべきだ。 自民党が憲法を作ったりしたら、自民党政治に都合のよい憲法にするに 決まっている、、、彼らはいつも自分たちに都合のいいルールを作るから。
現在の教育の諸問題も、要するに、 民主主義とは何かを知らない政治家や官僚が教育を動かして来たからだ。 憲法や教育基本法のめざす価値を知らない連中が、 教育をぶっ潰し続けてきた結果なのである。 学校から民主主義を奪い、自由を奪い、友愛よりは競争原理をけしかけ、 あとから慌てて、ゆとりだの、形ばかりの主体性だの、 付け焼き刃のように対策を講じてかえってちぐはぐなものにし、 地方の教育委員会は、体裁のいいことばかり言うけれど、 結局のところは、受験競争で成果が上がる学校を評価し、優遇する。 要するに、教育基本法は長年に渡りないがしろにされてきて、 そのためにさまざまな問題を生むことになってしまったのだ。
自由民主党とは名ばかりで、彼らが民主主義や自由ということに どれほど疎いかは、もういくらでも照明されている。 空疎な答弁、単独採決、強行採決、党議拘束。。。 彼らが「自由民主」なのは、自由経済競争を推進する点だけであろう。 これがまた、社会にとっても教育にとっても、大きな弊害のひとつなのだ。
真の愛国心教育というのは、国際紛争を解決する手段として武力を放棄、 という憲法の精神を徹底的に教えることである。 戦争の悲惨と、「我が国」だけでなく「世界」を愛することを教えることだ。 「我が国」をことさらに愛すれば、いずれ国土を損ない、 国民を不幸にすることを教えることである。 現在の憲法や教育基本法をしっかり教育することが愛国心教育になるのだ。
憲法や教育基本法を書き換えるよりも、ちゃんとあの精神に立ち返って、 国政や教育政策を見直して欲しいんだけどなー、、、 何であんな連中に、国民の多数が政治を任せたがるのか、全然わからん。
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