世界史不履修問題というのは、実は教員たちの涙ぐましい親心の産物である。 何とかして希望の大学に入れるようにしてやりたい、 予備校に頼るのでなく、自分たちの手で生徒の希望をかなえてやりたい、 そういう思いの表れである。 また、生徒たちも親たちも、受験に必要のない科目よりも、 受験に必要な科目に力を入れて欲しいと願っている。 ま、要するに利害が一致しているわけである。
私自身はそういうところに落ち着いてしまうのが嫌いで、 できる範囲で受験のめんどうは見るけれど、 受験のために授業や行事が侵されるべきではないという考えなので、 いろいろと苦々しく思うことが多い。 全員が大学を受験するわけでもなく、また、受験はするにしても、 さまざまな推薦入試で決めてしまう生徒が増えている現代ならなおさらだ。 しかし、そういう観点からいろいろと意見を言えば、 生徒のことを真剣に考えない不熱心な教師として非難を浴びるか、 時代錯誤の問題外の考えとして黙殺されてしまうか、どちらかである。
世界史・日本史問題について言えば、 私はどちらも必修にすべきだとずっと思ってきたし、 社会科の教員自身がどちらか一方の選択でよいと考えること自体、 ありえない不思議なことだと思ってきたので、 今回の発覚問題では、正直、ざまぁみろ、とややすっきり感覚である。 当事者たちにとっては、よかれと思って熱心にやっていたところへ 冷たい水をぶっかけられた、という感じなのだろう。 これを機に、頭を冷やして、受験指導について考え直して欲しいものだ。 また、こういう状況を生みだした遠因である、高校入試制度についても 大いに反省して欲しいものだ(もう手遅れだけど、、、)。
ある時、日本史の小テストや定期考査の問題を見たら、細かさに驚いた。 私は受験生時代に、高校のノートを下地にして、 そこに教科書や参考書や問題集からいろいろと補足を書き込んで、 それを改めて新しいノートに整理して、それを全部暗記した。 当時のいわゆる重箱の隅をつつくような項目も含まれていた。 しかし、その記憶の片隅にもないような細かいことが、 授業のテストとしていくつも出題されているのである。 「えらい問題が細かいねぇ」 「いや、これくらいやっとかないと受験に対応できませんから」 確かにあれから30年も経つと、重箱の隅も増えてるんだろうな。。。 「補習でやったら?」 「補習でもやりますが、ぜんぜん足りません」 どの生徒にも一様に重箱の隅に付き合わせる必要はないと思うのだが。 それでいて、国語の授業で基本的な史実を尋ねても、生徒は知らない。。。
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