きょうは曇空の下、昨日延期になった球技大会が行われた。 外に立って何をしているわけでもないのに汗ばむような蒸し暑い日だったが、 照りつける太陽がお隠れになっていらっしゃったので、 たまらん暑さだと不平の声を聞く必要のない、まあまあの条件であった。 しかし私は、暑さよりも、昨日・一昨日の足腰のダメージが残ったまま、 グランドに出て立っている時間のダメージが加わったせいか、 この上ないと言いたくなるほどの疲労を背負って帰宅した。 夕食後、「バフィー」を1話見たあと、横になったけれど、 腰がどうにもだるくて、横になっているのもつらくなって起きた。 しかし、また30分もしないうちに、耐えられず横になり、 足を上に上げて、足首をぐるぐる回したり、自転車こぎみたいなことをし、 そうしてしばらく横になっていたら、1時間ほどうとうとしたようだ。
ここ何年か、私は女子のバレーボールのコート監督を指定されることが多い が、もう、何とも、歯がゆいというか、もどかしいというか。。。 試合の得点の半分以上はサーブ1本で決まってしまうし、 その他は、とにかく相手のコートに強引に弾き返して相手のミスを待つ、 そう考えた方が得策のような、その程度の勝負である。 バレーボール部員がいると、三段攻撃に持っていこうとしがちであるが、 そうするとかえって墓穴を掘ることになる。
私自身の球技大会でもっとも思い出深いのは高校時代のハンドボールである。 授業でも、ハンドボール部員と争うようにプレイしていたけれど、 高校時代の球技大会は、運動部員は部活と同じ種目には出られなかったので、 どんどんゴールを決めることができた。 パスをカットして速攻というのも、何度も気持ちよく決めた。 爽快な圧勝の思い出である。
バレーボールについて言えば、中学時代の体育の授業でもよく褒められ、 高校では、部活には入らなかったものの、友人と同好会を作り、 週に1度はバレー部の友人を呼んで特訓を受けたりしていた。 その末に、もっとも得意なのはレシーブで、 これは大学時代にもまた教員になってからも、様々な親睦の球技大会の場で、 相手チームに「あいつの所にサーブを打つな」と言われることが多かった。 かなり強いサーブでもレシーブしたボールがセッターの位置に行く確率が 高いし、かなり強いアタックも、行き先知らずで拾えるのだ。 トスもかなりいい位置に上げられるようになっていたのだが、 残念ながら、アタッカーとしては成功率が低く、自信がもてないままだった。
小学校6年生の時にサッカーのゴールキーパーに憧れて、 サッカークラブでキーパーをしていたが、ある時、 ボールをつかもうとした瞬間にボールを蹴られて、右手の親指がひん曲がり、 1カ月ほどの間、病院通いをするはみになった。 「もうサッカーはやめとくれ」という母の願いを聞き入れて、 中学に入ったらバスケットボール部に入った。 体育の授業でも「すばらしい動き」と先生から褒められていたし、 レギュラー候補どころか、将来Fくんとキャプテン争いをしたはずである。 部活ができない日も、いつもバスケットコートでボールを遊んでいた。 生徒会活動やクラス活動の盛んな学校で、クラス討議が長引いたりすると、 ひとりイライラ、心の中で激怒していたものだった。
そんな熱心なスポーツ少年が、中一の夏休みに音楽と出会った。 オーケストラの奏でる音楽に心酔してしまったのである。 自分がオーケストラの一員として演奏したり、 またそれを指揮したりする夢を見ては汗びっしょりで目覚める日々が続いた。 それまでは淡い欲求でしかなかった、楽器を弾きたい欲望が圧倒し始めた。 バスケット部の有望格なんてものはもうどうでもよくなった。 とにかく音楽活動に関わりたい。。。。 そうして、バスケット部をやめて音楽部に転部した。
あの時の選択の実に紆余曲折した経緯の果てが最近の生活である。 吹奏楽連盟の県の役員を押しつけられ、地区と県の両方の大雑用係であり、 また一方で、市民バンドの運営のもっとも大事なところを預かっている。 もしもあの時スポーツ少年のままだったら、今ごろはどうしてるんだろう? ちなみに、私の妻は、その音楽部に転部したときの部長である。 その時からずっとつきあっていたわけではなくて、紆余曲折の末である。 もしも、あの時、スポーツ少年のままでバスケット部を続けていたら、 今の妻とも出会わなかっただろうし、 その後のさまざまな出会いもまったく別人だったはずである。
人生というのは一度限りで、やり直しがきかない。 にもかかわらず、さまざまな岐路に直面せざるをえない。 その岐路のひとつを選んでしまえば、他の道の行く末は謎のままである。 そうしてみると、人生というのは未知に満ち満ちていると言えるのだ。
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