きょうは昨夜予言したとおりになった。 曇り空時々晴れで雨は降らなかったのに球技大会は中止、 5時間分のノルマを果たしに教室に足を運び、クタクタ、、、 職員会議に課題チェックの仕事を持ち込んだけれど、案の定、少し眠った。 もう、何ともしょうがないのだ、この疲れようは。。。 今夜もたまらず横になったけれど、眠ってしまわないよう努力した。 最近はもう、学校のさまざまなシステムに対して文句たらたら、 それについてはもうきりがないほどなのだが。。。
きょうの橋本日記のテーマは「学ぶために働く」。 その趣旨はそちらを読んでいただくとして、 私が四半世紀ほど前に就職についてさほど真剣に考えてなかったところから 一歩抜け出して、いよいよ決めなければならなくなったとき、 高校の教員を選んだ理由はいくつかあるけれど、 もっとも大きな理由は、もっとも勉強を続けやすい環境、ということだった。
当時やろうとしていた勉強ができたというわけではないけれど、 確かにいろいろな勉強をさせてもらえたし、それは今も継続中である。 特に「現代文」なんて教科をやっていると、さまざまな分野について、 教材からだけではなくて、予備知識として知らざるをえなくなる。 「わかりやすい授業」ができるかどうかが我々の死活問題だから、 生来怠け者の私でもいろいろと勉強せざるをえなくなるのだ。 古文や漢文も、若かったころはその分野の優等生だったと言っても、 フィーリングで対処していただけに過ぎなかったが、 教員になってから本当にいろいろなことを知ったし考えた。 また、思いがけず吹奏楽の仕事が入ることによって、 音楽についてそれまで考えもしなかったような勉強もできた。 音楽活動は大学時代に諦めたはずなのに、不思議なことである。
そもそも、「教える」という行為こそ、もっとも勉強になるのだ。 「教える(又は書く)」という行為の中で、我々は自分の無知を痛感しつつ、 より確実な知識を求めたり、説明したり導いたりする工夫に頭を悩ませる。 これはとても貴重な体験の積み重ねである。
私はしばしばこういう感想を抱いた。 生徒たちは授業料を払いながらろくろく勉強しない、 我々は給料をもらいながら、うんと勉強させてもらっている。。。 実際これは理不尽なことながら、とてもありがたいことなのだ。
我々は初心を忘れがちである。 最初の思いからすると、この職業はちゃんとそれに適した職業なのだ。 そう文句たらたらいうべきではない。
しかし、さまざまな不満を募らせているのは、 教育知らずの「偉い人たち」が空想で思いついたくだらん雑務が増えて、 非本質的なことに教育界が振り回されているからである。 彼らは気楽でいい。 教えるとか、説明してわかってもらわなければならぬ義務がないから、 本当の意味での勉強を怠っても、いい加減な提案で報酬を得られる。 そうして、いっぱしの仕事をしたつもりで悦に入っている。 現場からバカにされているということに気づくような良識もない。 哀れなやつらだ。
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