TENSEI塵語

2006年05月12日(金) 「ロズウェル」見終わる

見終わったー。
最後の2話は随所で泣けた。
荒唐無稽な話という思いはつきまとうし、
ラストをもう少し丁寧に描いてほしかったな、と不満にも思うけれど、
そんなことは吹っ飛んでずっと見続けてきたし、感動させられたのだ。

そういう思いの裏にあるのは、
なぜこういう風に人間的に生きようとしている彼らを、
エイリアンとその仲間という烙印だけで迫害するのかという思いである。
確かに、彼らを保護する任務にあった者は、人間を冷酷に殺すこともあった。
しかしそれは、彼らのまったく知らないことだったし、
彼らはとにかく人間として、人間と同様の生活をしたがっていただけだ。
エイリアンは悪という十把ひとからげの烙印で追いつめて、
その人物自身を見ようとしないために、
彼らとその寛大な仲間たちがさまざまな窮地に陥ってしまう。

追いつめるFBIや軍部の連中の冷酷さといったら、
お前らこそ人間なのかよ、と憤りを伴わずに見ることができない。
奴らは、偏見と護身だけで、簡単に人を殺して平然としている。
もちろん彼らは、市民を守るためだと正義の言葉を口にするが、
実は、個々の人物をしっかりと見て言っているわけではない。
ある人物がエイリアンに殺されたとしか思われない、
彼らはエイリアンだという疑いがある、ゆえに彼らは人間を殺す、
という形式的な三段論法だけに頼って躍起になっているだけだ。
早い話が、エイリアンはすべて危険と決めつけて、
真実を見るよりは命令系統の指示だけが大事という人種である。
これもひとつの社会の縮図だ。
「24」にも「ダーク・エンジェル」にも描かれていた愚かな縮図だ。

この物語は、異星人をめぐる物語ではあるけれど、異星人には限らない、
人種差別やこの世のあらゆる偏見にもつながる物語なのだ。
マックスたちの味方となる地球人たちは、彼らがエイリアンだと知りつつも、
さまざまな葛藤の中で、その人自身がどういう存在かを重視する。
大切なのは、十把ひとからげにしてしまう偏見でなく、
個々の人間がどういう人物かである。
大切なのは烙印でなく(あたりまえだ)個々の心である。
そして、その人の心に迫れるのが、愛である。
ただドラマを見ているだけの我々と、マックス、マイケル、イザベルや、
その仲間になったリズ、マリア、カイル、保安官、アレックス、ジェシー、
そしてマックスとイザベルの養父母に対してまでも、
何となく家族のような感覚で親しみを覚え感謝の念を感じたりするのも、
そういう意味での愛の物語だからである。


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