「ゆとりの教育」が学力低下を招いた、という議論は浅はかで短絡的である。 そもそも、その「ゆとり」とは何だったのか? 授業時間数を減らし、詰め込む知識量を減らすというだけのことだったのか? そうではなく、それは、考える子を育てるという意味だったはずだし、 感じる子、さまざまなものと触れ合う子、さまざまな問題を自ら解決する子 を育てるということであったはずだ。 学力の基本は思考力・感受性・探求心による問題解決能力だから、 そういう意味では「ゆとり」のある教育は決して間違いではない。 ゆとりのない生活は、思考力も探求心も鈍らせてしまうからである。
しかし、詰め込み否定に偏りすぎて、繰り返しと訓練がおろそかになった。 宿題も、昔のドリルよりも、自由課題が多くなった。 自由課題自体は悪いことではないが、それがすべてではない。 教えるべき基本のことはしっかり教えなければならないし、 反復練習もやはり欠かせないのだ。 問題なのはわけもわからず知識だけ与えたり訓練を課したりすることなのだ。
総合学習なるものも、型どおりの授業とは異なるものをめざしたが、 昔の生徒会活動、自治活動の方がうんとレベルが高い。 総合学習の実践報告の中にはすばらしいものもいくつかあるにせよ、 授業という形で徹底しようとしたために、かえって形骸化する傾向である。 もっとも個性を尊重すべきことは、 授業という画一化されやすい方法を採ってはダメである。 ただでさえケチケチ財政で、教員数を節約しているのだから。。。
私は、学力低下は社会的要因の方が大きいと思う。 ゲームや漫画の氾濫、そして、それが子どもたちにも手に入れやすいこと、 そして、TV番組の進化、、、これらは要するに経済活動である。 あ、ケータイのさまざまな機能というのもある、 つまり、そういう営利重視の企業が、ターゲットを低年齢化しているのだ。 多くの子どもたちは忙しくて勉強どころではないのである。 一方で子どもたちの学力向上を願いながら、 他方で子どもたちを食い物にしようと日夜研究を重ねる企業もいるわけだ。 そして、日本の指導者たちは、子どもたちの問題よりも、 経済界の競争を鼓舞することに忙しい。
要するに、基本的な考え方が曖昧な上に、 政策上の一貫性に欠けているのが、学力低下の本当の理由である。
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