| 2007年06月10日(日) |
A LETTER FROM PRISON (啄木)�� |
'V NAROD' SERIES A LETTER FROM PRISON (啄木) この一篇の文章は、幸徳秋水等二六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せんがために、明治四三年一二月一八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期!然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於いて、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配布していたのである)判決を下されたかの事件---あらゆる意味に於いて重大なる事件---の真相を暗示するものは、今や実にただこの零 なる一篇の陳弁書あるのみである。 これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから一八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。ペンを走らせていると、遠く何処からか歌歌留多の読声が聞こえた。それを打消す若い女の笑声も聞こえた。さうしてそれは予がこれを写し終った後までもまだ聞こえていた。予は遂に彼が嘗て---七年前---「かるたの娯楽」と題する一文を週間平民新聞の新年号に揚げてあったことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君---恰(あたか)もその同じ新年号のしかも同じ頁に入社の辞を書いた---から借りて来ていた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以って結ばれていた。『歌がるたを楽しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に従ひて、食と眠りを忘れしこと屡(しばしば)なりき。今や楽しみなし。嗚呼老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす』
しかし彼は老いなかったのである。然り。彼は遂に老いなかったのである。
文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於いて、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひは之を正して置いた。
明治四四年五月 H,I,
礒部先生、花井、今村両君足下。私共の事件の為に、沢山な御用をなげうち、貴重な時間を潰し、連日御出廷下さる上に、世間からは定めて乱臣賊子の弁護をするとて種々の迫害も来ることでせう。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。 さて頃来の公判の模様に依りますと、「幸徳が暴力革命を起こし」云々の言葉が、此多数の被告を出した罪案の骨子の一となっているにも拘わらず、検事調べに於いても、 審に於いても、我等無政府主義者が革命に対する見解も、又其運動の性質なども一向明白になっていないで、勝手に憶測され、解釈され、附会されて来た為に、余程事件の真相が誤られはせぬかと危ぶむのです。就いては、一通り其等の点に関する私の考へ及び事実を御参考に供して置きたいと思ひます。
無政府主義と暗殺
無政府主義の革命といへば、直ぐ短銃や爆弾で主権者を狙撃する者の如くに解する者が多いのですが、夫(それ)は一般に無政府主義の何者たるかが分かっていない為であります。弁護士諸君にはすでに承知になっているごとく、同主義の学説はほとんど東洋の老荘と同様の一種の哲学で、今日のごとき権力、武力で強制的に統治する制度がなくなって、道徳、仁愛をもって結合せる相互扶助、共同生活の社会を現出するのが、人類社会必然の大勢で、吾人の自由幸福を完くするには、この大勢に従って進歩しなければならないというにあるのです。 したがって無政府主義者が圧政を憎み、束縛を厭い、同時に暴力を排斥するのは必然の道理で、世にかれらほど自由、平和を好むものはありません。かれらの泰斗と目せらるるクロポトキンのごときも、判官は単に無政府主義者かとお問いになったのみで、やはり乱暴者と思召しておいでかも知れませんが、彼は露国の伯爵で、今年六十九歳の老人、初め軍人となり、のちに科学を研究し、世界第一流の地質学者で、これまで多くの有益な発見をなし、その他哲学、文学の諸学通ぜざるなしです。二十余年前、仏国リヨンの労働者の爆弾騒ぎに関係せる嫌疑で入獄した際、欧州各国の第一流の学者、文士連署して仏国大統領に陳情し、世界の学術のために彼を特赦せんことを乞い、大統領はただちにこれを許しました。その連署者には大英百科全書に執筆せる諸学者もすべてこれに加わり、日本で熟知せらるるスペンサー、ユーゴーもとくに数行を書添えて署名しました。もってその学者としての地位、名声のいかに重きかを知るべしです。そして彼の人格はきわめて高尚で、性質はきわめて温和、親切で、けっして暴力を喜ぶ人ではありません。 またクロポトキンと名をひとしくしたフランスの故エリゼー・ルクリュス(Ruclus)のごときも地理学の大学者で、仏国は彼がごとき大学者を有することを名誉とし、市会は彼を記念せんがためにパリの一道路に彼の名を命けたくらいです。彼は殺生を厭うのはなはだしきため、ぜんぜん肉食を廃して菜食家となりました。欧米無政府主義者の多くは菜食者です。禽獣をすら殺すに忍びざる者、なんぞ人の解するごとく殺人を喜ぶことがありましょうか。これら首領と目さるる学者のみならず、同主義を奉ずる労働者は、私の見聞したところでも、他の一般労働者に比すれば、読書もし、品行もよく、酒も煙草も呑まぬものが多いのです。彼らはけっして乱暴ではないのであります。 なるほど無政府主義者中から暗殺者を出したのは事実です。しかしそれは同主義者だから必ず暗殺者だというわけではありません。暗殺者の出るのはひとり無政府主義者のみでなく、国家社会党からも、共和党からも、自由民権論者からも、愛国者からも、勤王家からもたくさん出て居ります。これまで暗殺者といえばたいてい無政府主義のように誣いられて、その数も誇大に吹聴されています。現に露国アレクサンドル二世帝を殺したごときも、無政府党のようにいわれますが、アレは今の政友会の人々と同じ民権自由論者であったのです。実際歴史を調べると、他の諸党派に比して無政府主義者の暗殺がいちばん僅少なので、過去五十年ばかりの間に全世界を通じて、十指にも足るまいと思います。かえりみてかの勤王家、愛国家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、わが日本のみにしてほとんど数十人あるいは数百人を算するではありませんか。 単に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言わば、勤王論、愛国思想ほど激烈な暗殺主義はないはずであります。 ゆえに暗殺者の出るのは、その主義の如何に関するものではなくて、その時の特別の事情とその人特有の気質とが相触れてこの行為に立ちいたるのです。たとえば政府が非常な圧制をやり、そのために多数の同志が言論、集会、出版の権利自由を失なえるはもちろん、生活の方法すらも奪わるるとか、あるいは富豪が横暴をきわめたる結果、窮民の飢凍悲惨の状見るに忍びざるとかいうがごときに際して、しかもとうてい合法平和の手段をもってこれに処するの途なきとき、途なきがごとく感ずるの時において、感情熱烈なる青年が暗殺や暴挙に出るのです。これ彼らにとってはほとんど正当防衛ともいうべきです。かの勤王、愛国の志士がときの有司の国家を誤らんとするを見、または自己らの運動に対する迫害急にして他に緩和の法なきのとき、憤慨の極暗殺の手段に出ると同様です。彼らもとより初めから好んで暗殺を目的とも手段ともするものでなく、みな自己の気質と時の事情に駆られてここにいたるのです。そしてその歴史を見れば、初めに暴力を用うるのはむしろ時の政府、有司とか富豪、貴族とかで、民間の志士や労働者は常に彼らの暴力に挑発され、酷虐され窘窮のあまり、やむなくまた暴力をもってこれに対抗するに至るの形跡があるのです。米国大統領マッキンレーの暗殺でも、イタリア王ウンベルトのでも、またスペイン王アルフォンソに爆弾を投じたのでも、みなそれぞれその時に特別な事情があったのですが、あまり長くなるから申しません。 要するに、暗殺者はその時の事情とその人の気質と相触るる状況如何によっては、いかなる党派からでも出るのです。無政府主義者とは限りません。否、同主義者はみな平和、自由を好むがゆえに、暗殺者を出すことはむしろきわめて少なかったのです。私は今回の事件を審理さるる諸公が「無政府主義者は暗殺者なり」との妄見なからんことを希望に堪えませぬ。
革命の性質
爆弾で主権者を狙撃するのでなければ、無政府的革命はドウするのだといふ問題が生ずる。革命の熟語は支那の文字で、支那は甲姓の天子が天命を受けて乙姓の天子に代わるを革命といふのだから、主に主権者とか、天子とかの更送をいふのでせうが、私共の革命はレヴォルーションの訳語で、主権者の変更如何には頓着なく、政治組織、社会組織が根本に変革されねば革命とは申しません。足利が織田になろうが、豊臣が徳川になろうが、同じ武断封建の世ならば革命とは申しません。王政維新は天子は依然たるも革命です。それも天子および薩長氏が徳川氏に代ったがために革命というのではなく、旧来凡百の制度、組織が根底から一変せられたから革命というのです。一千年前の大化の新政のごときも、やはり天皇は依然たるも、また人民の手でなく天皇の手によって成されても、ほとんど革命に近かったと思います。すなわち私どもが革命というのは、甲の主権者が乙の主権者に代るとか、丙の有力な個人もしくは党派が丁の個人もしくは党派に代って政権を握るというのでなく、旧来の制度、組織が朽廃衰弊の極崩壊し去って、新たな社会組織が起り来るの作用をいうので、社会進化の過程の大段落を表示する言葉です。ゆえに厳正な意味においては、革命は自然に起り来るもので、一個人や一党派で起し得るものではありません。 維新の革命にいたしましても、木戸や西郷や大久保が起したのではなく、徳川氏初年に定めた封建の組織、階級の制度が三百年間の人文の進歩、社会の発達に伴わなくて各方面に朽廃を見、破綻を生じ、自然に傾覆するにいたったのです。この旧制度、旧組織の傾覆の気運が熟しなければ、百の木戸、大久保、西郷でもどうすることもできません。彼らをしていま二十年早く生れしめたならば、やはり吉田松陰などといっしょに馘られるか、なにごともなし得ずに埋木になってしまったでしょう。彼ら幸いにその時に生れてその事に与り、その勢いに乗じたのみで、けっして彼らが起したのではありません。革命の成るのはいつでも水到渠成るのです。 ゆえに革命をドウして起すか、ドウして行うかなどということは、とうていあらかじめ計画し得べきことではありません。維新の革命でも形勢は時々刻々に変じて、何人も端倪、揣摩し得るものはありませんでした。大政返上の建白で平和に政権が引渡されたかと思うと、伏見、鳥羽の戦争がはじまる。サア開戦だから江戸が大修羅場になるかと思えば勝と西郷とでこの危機をソッとコワしてしまった。まず無事にいったかと思うと、また彰義隊の反抗、奥羽の戦争があるという風である。江戸の引渡しですらも、勝、西郷のごとき人物が双方へ一時に出たからよかったものの、この千載稀な遇合がなかったら、ドンな大乱におちいっていたかも知れぬ。これとうてい人間の予知すべからざるところではありますまいか。さすれば識者、先覚者の予知し得るは、来るべき革命が平和か、戦争か、いかにして成るかの問題ではなくして、ただ現時の制度、組織が、社会、人文の進歩、発達に伴わなくなること、その傾覆と新組織の発生は不可抗の勢いとなること、封建性がダメになれば、その次にはこれと反対の郡県制によらねばならぬこと、専制の次には立憲自由制になるのが自然なることなどで、この理を推して、私どもは、個人競争、財産私有の今日の制度が朽廃し去った後は、共産制がこれに代り、近代国家の圧制は無政府的自由制をもって掃蕩せらるるものと信じ、この革命を期待するのです。 無政府主義者の革命成るのとき、皇室をドウするかとの問題が先日も出ましたが、それもわれわれが指揮、命令すべきことではありません。皇室みずから決すべき問題です。前にも申すごとく、無政府主義者は武力、権力に強制されない万人自由の社会の実現を望むのです。その社会成るのとき、何人が皇帝をドウするという権力をもち、命令を下し得るものがありましょう。他人の自由を害せざる限り、皇室は自由に、勝手にその尊栄、幸福を保つの途に出で得るので、なんらの束縛を受くべきはずはありません。 かくてわれわれは、この革命がいかなる事情の下に、いかなる風に成し遂げられるかは分りませんが、とにかく万人の自由、平和のために革命に参加する者は、でき得る限り暴力を伴わないように、多く犠牲を出さぬように努むべきだと考えます。古来の大変革の際に多少の暴力を伴い、多少の犠牲を出さぬはないようですが、しかしかかる衝突は常に大勢に逆行する保守、頑固の徒から企てられるのは事実です。今日ですら人民の自由、平和を願うと称せられている皇室が、そのときにおいてかかる保守、頑固の徒とともに大勢に抗し、暴力を用いらるでしょうか。今日においてこれを想像するのは、寛政頃に元治、慶応の事情を想像するごとく、とうてい不可能のことです。ただ私は、無政府主義の革命とはただちに主権者の狙撃、暗殺を目的とするものなりとの誤解なからんことを望むのみです。
所謂革命運動
革命が水到渠成るように自然の勢ひなれば、革命運動の必要はあるまい、然るに現に革命運動がある。革命運動は即ち革命を起こして爆弾を投ぜんとするものではないか、といふ誤解があるやうです。 無政府主義者が一般に革命運動と称しているのは、すぐ革命を起すことでもなく、暗殺、暴動をやることでもありません。ただ来らんとする革命に参加して応分の力をいたすべき思想、知識を養成し、能力を訓練するすべての運動を称するのです。 新聞、雑誌の発行も、書籍、冊子の著述、頒布も、演説も、集会もみなこの時勢の推移、社会の進化するゆえんの来由と帰趨とを説明し、これに関する知識を養成するのです。そして労働組合を設けて諸種の協同の事業を営むがごときも、また革命の新生活をなし得べき能力を訓練しておくに利益があるのです。しかし日本従来の労働組合運動なるものは、単に眼前労働者階級の利益増進というのみで、遠き将来の革命に対する思想よりせるものはなかったのです。無政府主義もまた労働組合に手をつけたことはありません。 ゆえにいま一個の青年が、平生革命を主張したとか、革命運動をなしたといっても、ただちに天皇暗殺もしくは暴挙の目的をもって運動せりと解してこれを責めるのは残酷な難題です。私どもの仲間では、無政府主義の学説を講ずるのでも、またこの主義の新聞や引札を配布しているのでも、これを称して革命運動をやってるなどというのは普通のことです。しかしこれは革命を起すということは違います。 革命が自然に来るのなら、運動は無用のようですが、けっしてそうではありません。もし旧制度、旧組織が衰朽の極に達し、社会が自然に崩壊するとき、いかなる新制度、新組織がこれに代るのが自然の大勢であるかに関して、なんらの思想も知識もなく、これに参加する能力の訓練もなかった日には、その社会は革命の新しい芽を吹くことなくして、旧制度とともに枯死してしまうのです。これに反して知識と能力の準備があれば、元木の枯れた一方から新たな芽が出るのです。ローマ帝国の社会は、その腐敗に任せてなんらの新主義、新運動のなかったために滅亡しました。フランスはブルボン王朝の末年の腐敗がアレほどになりながら、一面ルーソー、ヴォルテール、モンテスキューなどの思想が新生活の準備をしたために、滅亡とならずして革命となり、さらに新しきフランスが生れ出た。日本維新の革命に対してもその以前から準備があった。すなわち勤王思想の伝播です。水戸の大日本史でも、山陽の外史、政記でも、本居、平田の国学も、高山彦九郎の遊説もそれであります。彼らは徳川氏の政権掌握ということが漸次日本国民の生活に適しなくなったことを直覚し、むしろ直感した。彼らはあるいは自覚せず、あるいはおぼろ気に自覚して革命の準備をなしたのです。徳川家瓦解のときは、王政復古に当ってマゴつかないだけの思想、知識がすでに養成せられていた。かくて滅亡とならずして立派な革命は成就せられた。もしこれらの革命運動がその準備をしていなかったなら、当時外人渡来という境遇の大変に会って、危いかな、日本はあるいは今日の朝鮮の運命を見たかも知れませぬ。朝鮮の社会がついに独立を失ったのは、永くその腐敗に任せ、衰朽に任せて、みずから振作し、刷新して新社会、新生活に入る能力、思想のなかったためであると思います。 人間が活物、社会が活物で、常に変動進歩してやまざる以上、万古不易の制度、組織はあるべきはずがない。かならず時とともに進歩、改新せられねばならぬ。その進歩、改新の小段落が改良あるいは改革で、大段落が革命と名づけられるので、われわれはこの社会の枯死、衰亡を防ぐためには、常に新主義、新思想を鼓吹すること、すなわち革命運動の必要があると信ずるのです。
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