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2007年06月03日(日) 『現代のアイヌ―民族移動のロマン―』(菅原幸助)を読んでの感想(2004年過去ログ�◆�


577. 本、借りてきた! 2004/06/08 (火) 23:45

 先日、「現代のアイヌ −民族移動の大ロマン - 」のご紹介を頂いて以来、いつもの「コダワリ」が頭をもたげてしまい、同書を探してみましたが、近隣では生憎と見つかりませんでした。
 それよりも20年から25年も新しくなりますので、当然「時代の違い」があるとは思いましたが、

  菅原幸助著「『日本人になれない』中国孤児」 遙泉社1989年刊
  菅原幸助著「初年兵と従軍慰安婦」 三一書房 1997年刊
  藤本英夫著「泉 靖一伝」 新潮社 1994年刊

 の三冊を図書館より借りてきました。

 「予断」を持たずに先ず通読をすべきなのですが、凡人の浅ましさから、「人権意識」の形成というか培養というか、そういうことだけをパラパラと拾い読みをしました。

 その中から、菅原、泉ご両名には共通するご体験があることが判りました。
 先ずはその青年期を菅原さんは「満州」、泉さんは「朝鮮」でお過ごしであったこと。
 次いで菅原さんは新聞記者として駐在、和泉さんは大学教授としての学術調査の違いはありますが、ともに「アイヌ」と直接に関わりをお持ちになって居られることです。
 外地での生活体験は、私も拙HP「儲かったですませていたこと」と重なる想いがいたします。

 菅原さんには、自分の本意とは関わりなく満蒙開拓青少年義勇軍などの日本の拓殖・植民政策に乗っていた自分、加えて、姫だるまさんからもご紹介のあったような、関東軍上層部家族の避難行に同行し、不時の匪襲を逃れるためとはいえ、同胞を見捨てた辛い厳しい悔悟などがありました。

 和泉さんには、敗戦直後の混乱の中で結成された「京城内地人世話人会」の依頼・嘱託に拠り、既に活動していた「京城帝国大学医学部」学生による医療救護(38度線付近に迄進出し「赤十字旗」を立て活動していた)に「同」教授らをくわえた京城罹災民救済病院の組織化がありました。この組織は「半島」内に止まらず、移動医療局として引き揚げ船内から上陸地の博多にまで達します。そして財政面も含めて再組織されたのが「在外同胞援護会(外務省の外郭団体)救療部聖福病院」です。
 今、済生会二日市病院の近くに、ただ「仁」と一字だけが彫り込まれた石碑があり、その背面には「堕胎が当時、法律で禁止されていることを知りつつ、職を賭して行った彼らの人道的行為は後世に伝えられるべき・・・」と建立の趣旨が刻まれているそうです。

 また書きます。

578. いまも変わらぬ国民性(1) 2004/06/13 (日) 15:13

 北海道で研究旅行中にその調査対象者から罵声を蒙って、依頼フィールドワークから身を引かれたというお話を識り、そのお人柄を伝える「泉靖一伝」(前掲)の抜き書きをしていて、気づいた話です。
 私の「想い出」と全くと言って良いほど重なる話ですし、今もって日本国内に無しとせぬ話です。(文中の註記は私です)

 先ずは、時代順に「泉靖一伝」から、

 光州学生運動(註:1929.11.3)は、3・1運動(註:1919年)以降最大の国内反日運動であった。(中略)
 事件は朝鮮人女学生を,日本人中学生がからかったのが原因だったが、加害者は日本人であるのに、事件処理にあたった日本人警察官が、いやがらせをみかねて制止に入った朝鮮人中学生を逆に殴ったりした。これを機に、ふだんから鬱積していた反日感情が爆発、(中略)
 事件は翌春までに、小学校から大学まで、「全朝鮮194校、約6万が参加する反日示威」運動となった。
  (中略)
 光州駅前の争乱から1か月後の12月3日、京城でも約二千枚のビラが、市内の大学から中学にまで配られた。そして30校、1万人の学年ゼネストが準備され、計画どおり、・・・・鍾路の、3・1独立運動の聖地、パゴダ公園を中心にして行われた。「日本帝国打倒万歳」、「植民地解放万歳」、「奴隷教育反対」のビラを撒きつつのデモ隊は、警官隊ともみ合い、この日検挙考は3千とも4千とも、また負傷者5百、死者は男女合わせて数十名ともいわれている。

 ちなみに、この事件を明石書店発行の「入門韓国の歴史 −国定韓国中学校国史教科書−」に観ると、

 1929年11月3日、光州で韓日の学年の問に起こった衝突をきっかけに、平素の民族差別に対する怒りと反日感情が爆発し、大規模な反日学生示威が起こった。この学生運動は瞬く間に全国に広がり、各地で多くの学校が抗日示威を展開し、一般国民までもこれに加わった。
 光州学生抗日運動は単純な学生運動ではなく、日帝の民族差別に対する闘争であり、さらには,民族独立闘争の一環として展開された3・1運動後もっとも'大規模な民族運動だった。

 と、あります。

 このような日本人中学生による現地人学生に対する「からかい」「嫌がらせ」は、ほぼ15年後の私にも憶えがあります。
(次へ続けます)

580. いまも変わらぬ国民性(2) 2004/06/13 (日) 15:36

 私は、1942(昭17)年に中学校に入りました。その頃の想い出として、前述の「朝鮮人女学生を日本人中学生がからかった」に重なる話があります。

 当時の奉天市(現瀋陽市)には、男子中学校が2校と工・商の計4校がありました。各校とも下宿や会社の社員子弟学生寮を含めて市内通学生がほとんどでしたが、僅かな汽車通学生がおりました。そして、その多くは市南方にある満鉄機関区・操車場のある街からでした。
 普段の市中では、今と同じく学校間格差が一般にも根強い中で、生徒にも内心にはお互いに張り合う気持ちが渦巻いていたと思うのです。その彼らが、時折(中間・期末試験後が多かった?)連合して、現地人中等学校生を、列車の後部から前部へ追い詰める、「今日は何両目かまでしか出来なかった」というような「遊び」を楽しみ、また、登校後、それを教室で語って、私ども共々に笑いあったものでした。

 はからずも「光州学生運動」の発端を識って、この現地人男子中等学校生らは、他の乗客へ迷惑が波及することを避けるに止まらず、光州の学生と同じように女子学生を固く守っての退避であり、隠忍であったこと、今まで全く考えもしていなかったことに気づき深く恥じ入っています。

 ひるがえって、現今の国内を見回すと、日本と「北朝鮮」との関係が問われる度に、民族学校女子学生のいわれなき被害が報じられます。他方からは「いつまで、何回、謝れば済むのだ」といった声が、庶民間に限らず聞こえて参ります。

 年の所為か、眼が潤んで参ります。一端は終わります。





583. 大変興味深く拝見しています    2004/06/15 (火) 15:49

まいど、消化中レスで申し訳ありません

大変興味深く(と言っては変なのですが)拝見させていただいております。
ワタシが  さんにお尋ねしようとしていることは、もしかしたら「いくつもの『満州』があるんじゃないか」(「負」をふまえつつ)ということかもしれません。『』の部分は、疎開・蒙開拓義勇軍・・・何が最もふさわしいのか、まだわからぬまま埋めています。
人権問題かもしれません。 
これからも、お話をお伺いさせていただきたく存じます。


584. 竹      2004/06/15 (火) 22:21

竹 といえば
若い(乾いてない)と、火にくべると燃えます。
古い(乾いている)と、火にくべると燃えつつも炸裂(破裂音)します。

節

ありがとデス♪




585. 「人に歴史あり」 2004/06/15 (火) 23:33

 いま、NHK・TV に「その時 歴史が動いた」という番組があります。その当初の標題は「人に歴史あり」であったと記憶しています。
私は、菅原幸助さん、泉 靖一さん、金田一京助さん、等の業績に学び、その人となりを識ってゆく中で、そのことを、改めて、強く、感じています。
 私が語る『満州』は、そのような『満州』であり、「いくつもの『満州』があるんじゃないか」のうちの極々小さい部分の、そのまた一つに過ぎない、と、ご理解を願いたく存じます。

 「『負』をふまえつつ」とのお言葉を、私は「新しい歴史」として記述される歴史と、それを批判する主張との間隙を、ご自身で確かめようとのお考えかと拝します。

 と、いたしますと、その体験者・記述者等が何れの視点、即ち、統治面か、経済面か、人権面か、あるいは国際関係からか、さらには、それらが複合的に絡み合っての主張なのか、それらも「人それぞれ」であろうと思惟いたします。姫だるまさんがご紹介下さった、菅原さんのご著書中の引用部分に対して述べた私の疑問も、著者のその後のご著書から「人権意識」変革の過程での記述なのかな?と考えているところです。

 また、私に致しましても拙コーナー「儲かったですませていたこと」は、戦後30年以上、それも「部落差別」に学び始めてやっとの気づきでしたし、前述の「光州学生運動」の発端に重なる中学時代の想い出などを思えば「これが歴史」「これが実態」などと軽々に断じられるものではないと考えます。

 ただ、いずれの国も、自国内の経済的・社会的な矛盾解決の手段として、今も昔も、国民の目を国外へ逸らそうと策すことに変わりはないと、私は断じます。(日本の封建時代における「部落差別」を別としての条件付きですけど)




587. 竹・・・   2004/06/18 (金) 14:32

切り口が新しい!    さん♪

>また、私に致しましても拙コーナー「儲かったですませていたこと」は、戦後30年以上、それも「部落差別」に学び始めてやっとの気づきでしたし・・・

 ワタシ自身は、昭和に、二十四年間ほど在籍していながら、(東京オリンピック開催年に生まれています)昭和史を知らなすぎることを恥ずかしく思ってきました。
敗戦直後のことで、唯一、実母から、学校教科書の墨塗りを消しゴムで(と申しておりました)消す作業が大変だったことは、繰り返し聞いてきたように思いますが、(実母は当時小学校1年生でした)思想、言論の自由が奪われ戦争へ突き進んだプロセスについては、やはり幼少の母は実感がなかったようです。
少なくとも母は、戦争に疲れきっていた、憲法「第九条」を抵抗することなく受け入れた大多数の日本国民=親を見つめてきたような話は、ワタシにしませんでした。

 このたび初めて「光州学生」を見下す行為をはたらいた日本人についてお聞きすることができ、また隣国の「不信感」についての学びを深めることができましたが、これも表現の自由を保障している「憲法」があるからこそということも自分の頭の中では意識し、今後ともぜひお話をお伺いしていきたいと思っている次第です。




588. 憲法「第9条」私見 2004/06/18 (金) 23:03

 ここは一寸違います。

 > 憲法「第九条」を抵抗することなく受け入れた大多数の日本国民

 国会の審議過程において、「戦力」の定義といいますか「自衛権」といいますか、外国からから蒙る不測不時の侵攻に対する問題が論議されています。此に対する吉田首相・金森担当国務大臣の答弁は、「前文」を引用した「国際的信頼関係」を論拠とした「不戦論」でした。
 当時の文部省国定教科書「新しい憲法のはなし」(拙HPに同名のコーナーあり)より引用をします。

 > そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。(註:第9条第1項)

 > もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。(註:第9条第2項)

 当時の書店では、東大の我妻 栄教授の「憲法原論」有斐閣刊は必備図書でした。(←は、なりたてだった「本屋の小僧」の想い出)

 日本教職員組合発足の原点に、「教え子を再び戦場へ送らない」とあります。これは、「予科練」を始めとする「少年兵」、加えては「満蒙開拓青少年義勇隊」への積極的な勧奨への強い反省があったと記憶しております。

 いまの「日本外交」に対しては、こうして私の体験を通してお話ができることを、僅かな慰みとします。

 これからも、宜しくお願いを申し上げます。




589. 補足させていただきます(1) 2004/06/20 (日) 17:54

  「消化不良」を侵してしまわれる前に・・・

 > 異文化との出会いに、菅原さんや さんは戦中、共通して青年らしい強いご関心を示しておられたと感じます。
 > 中国語の位置づけは、時代が悪くても、可能な限りよく生きようという選択肢が 自身に向いているとした、というものではなかったのか

 菅原さんのように日本国内では体験できない大規模農業に志を立て、現地の農業・農作業にも学ぼうとされた(「初年兵と従軍慰安婦」読後感)純粋な青年とは違って、私は、満鉄附属地(駅前)を中心として発達した日本人街(当時の奉天市の日本人は15万人と聞いています)で暮らしていました。従って、私に関する限りは何卒ご放念ください。

 従って、そのような地域に接してくる中国人は日本人相手の商売、野菜の行商人、馬車・荷馬車・人力車の車夫ぐらい、私自身が日常に現地の人に接することは、ほとんどありませんでした。
中学校の外国語は、英語が週8時間に対して、本当に大事にしなければならなかった「支那」語(当時はこのように言っていました。語源は英語の China によることはご承知かと存じます)は1/2年次に限っての2時間に過ぎませんでした。当時は東亜(これも東洋などとは言わなかった)の盟主を自認し、「鬼畜米英」に至る前、すでに総ての他民族を蔑視していたものです。「読本」の外に「文法」「作文」と苦労をさせられた英語も3年次には半減して週4時間となり、4年次には4月早々からの「勤労動員」で一切の教科が受けられなくなりました。

 私が、日本人の奢り・高ぶりを識ったのは、引き揚げてくる前の2年弱を使役として日本人会から派遣され、長春市警察局外事課で書記のような仕事をその都度命じられながら、外国人(多くは日本人)の管理を望見出来たからでした。
 そんな中で、日本語の中国語訳はまだまだ不十分でしたが、中国語の和訳に際しては、その気持ちも伝えられるくらいに成っていたつもりです。

 でも、それらのことを「人権」の目で捉え、考えられるようになったのは、常に申し上げている如くPTA研修部長として、当時沸き起こってきた「同和教育」に関わらざるを得なかったことが、大きな幸いとなっています。

 それがなければ、「悪いことばかりはしていない」という考え方から解き放たれる事はなかったであろうと言えます。


590. 補足させていただきます(2) 2004/06/20 (日) 22:41

   > 満蒙開拓義勇軍(満蒙開拓を夢見て渡満)を戦争協力者と断じたのでは得られないものがあるように感じることは間違っているでしょうか。

 或る集団を色分けする事はそこに属する個人、一人ひとりを色分けしていることに繋がろうかと考えます。
 満蒙開拓青少年義勇軍の発想の第一に日清戦争以来の「日本の生命線」維持の思想があり、その方策の一としての施策であったろう、というのが私の見方です。その背景には、昭和初期に軍部若手将校らにより画策された「昭和維新」、その遠因として農村の疲弊と国内の人口の増加があったと認識をしております。その根本にある問題の解決策としてですね。
 「青少年義勇軍」なり「開拓団」に参加なさった方々、もっと言うならばそれを企画・推進為された方々にすら「大陸侵略」の意図などは全くなかったと、私は断じたいと思います。さらにつけくわえさせていただくなれば、「満蒙開拓史」は、最近私が「アイヌ神謡集」から学んだ「北海道開拓史」に続いて綴られるべき「日本国庶民史」になろうか、と。

 「歴史に『IF』はない」と言われることを承知で言わせて貰うなれば、開戦前の日米折衝で「万里の長城以南から撤兵するならば、満州の日本権益は認める」と言うような提案を米国が為したことがあったとか(?)。

 「世界の警察官」の陰には「石油資本」が潜んでいるかの報道もあります。「大東亜の盟主」を自負した陰に、国民一人ひとりの思い上がり、またそれをことある毎に示威した愚かさが「国策遂行」に力あった、ことに気づいたのは、「部落差別」を学べたからであり、「アイヌ神謡集」に接し得たからでもあります。

 蛇足として付け加えますが、彼ら「青少年義勇軍」の幼さとご理解を頂きますよう、最初にお願いを申しておきます。
 私たちが「勤労動員」で収容された社員寮にも「開拓地」から動員されてきた20人ほどの「青少年義勇軍」が私たちより遅れて入寮してきました。その後、彼らの後から私たちが入浴すると浴室はおろか浴槽までが小便臭いことが二度、三度とありました。それに気づいてからは、退社が彼らより遅れた日には二里(約八キロ米)は有ったろう帰途を駈け通し、幸いに追い越せるとそこから早足に戻ったものでした。

「現代のアイヌ 民族移動のロマン」、神戸中央図書館にあるようです。著者の「人権意識」変革の過程を是非識りたいと考えています。


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