| 2007年06月02日(土) |
『現代のアイヌ―民族移動のロマン―』(菅原幸助)を読んでの感想(2004年過去ログ� � |

541. アイヌ語学習会へのおつきあいどうもありがとうございました 2004/04/08 (木) 23:43
アイヌ語カウントダウンではお世話になりました。 その後、何人かの人に問い合わせ、 アイヌの「解平社」設立に携わった方でご健在の方は おられないようだとの回答をいただきました。 アイヌ語学習存続と部落問題との接点を 「水平社宣言」の中に見いだそうとしたワタシのしわくは いっぺんに崩れさったかに見えました。 が、その後の礒部さんサイト等での調べで、 部落解放同盟(戦後の同和対策審議会答申獲得のための行政闘争)と 北海道のアイヌ解放運動に接点があったことなどがわかってきました。 そのことの詳細が、菅原幸助(元朝日新聞記者)の著書 『現代のアイヌ―民族移動のロマン―』(1966 現文社 )に 書かれていることをつきとめました。 が、その本は現在は絶版であることがわかりました。 ただ、著者菅原幸助氏については、・・・本は見つからなかったけれども、著者への関心がそれにもまして深まりました。それこそ、アイヌ語学習継続の理由であるなどとは決して言葉にはできぬまま、とりあえず報告にあがりました。ではでは。

545. 似たような体験,思いから 2004/04/10 (土) 21:45
菅原幸助さんのご紹介を有難うございます。年齢的にも、体験的にも菅原さんに共感、というよりも親近感を抱きました。
すでにご承知かと存じますが私も外地で敗戦を迎え、図らずも中国人社会の中で1年有余の仕事を体験し、帰国後30年を経て初めて「あれが侵略であった」と気づかされたのは「同和教育」に接する機会が与えられてからでした。そのことは、幣サイト「儲かったで済ませていたこと」;にて振り返っているところです。
調べてみましたところ、菅原さんのご著書は数多くあるようですので、そのどれかから新しい視点が授かれるものなればと、またまた、宿題を抱えてしまいました。←愚痴っているのではないですよ!
それから・・・、
「水平社宣言」にいう「吾等の為の運動が、何等の有難い効果を齎さなかった事実」「そしてこれ等の人間を勦わるかの如き運動は、かえって多くの兄弟を 堕落させたこと」と、「旧土人保護法」とが私には重なって見えてくるように覚えるのです。
「被差別地区」内にもあると聞き、「アイヌ」にもなびいている人たちも無きにしもと思われる「寝た子を起こすな論」など、同根の思いを抱いています。
また、教えて下さい。

546. 菅原幸助さんのことで 2004/04/20 (火) 14:32
2004年3月10日の中国残留孤児訴訟の第7回の口頭弁論(東京地裁第103号法廷)で初の証人尋問が行われ、長い間、残留孤児の支援に当たってきた菅原幸助氏が4時間にわたって、国の責任を告発する陳述を行われました。その模様を、ある党員の方の日記に見つけたので。・・・
・・・人間ってなんだろう 感想がまとまらないまま書いています。またよろしくお願いします。

547. 辛い思いでだけど・・・ 2004/04/20 (火) 23:28
> 水の補給で停止していた列車が、匪賊の襲撃で急遽出発した時に・・・
私たちはそのような終戦前の状況を「疎開」といっていました。いわば、「内地」の人々が「空襲」を避けて都市を離れていった「集団疎開」といった感覚ですね。非常にあわただしく急かされる中で、一ヶ月も辛抱をすれば直に帰宅が叶うような思いでした。それほど「関東軍」を信頼し、早期の「反撃」を信じていた、逆に言えば全く「情報」が与えられていなかったと言うことです。ですから、不用意にも僅かな停車時間中に下車するような(例えば幼児の用便とか・・・)行為が見られたわけです。 8月14日には当時の首都「新京(現長春)」においても「軍官学校(日本の陸軍士官学校にあたる)」を始めとする「決起」が起こっていますから、知らぬは日本人ばかりだったのです。
想像で語ってはいけないことを承知しながら、私も深夜停車中の真っ暗な車中へソ連兵を先頭に立て押し込んできた現地人に、為す術もなく身を縮めて居る中で「子どもを泣かすな!」という罵声を聞いたことを思い出しながら続けます。
戦後、一般住民を差し置いて「関東軍」関係の家族が一番先に避難したことが各方面から指摘をされ非難を受け続けていますが、それは必ずしも正鵠を得た見方ではないと考えています。 当時の日系官吏は、特に私たちが「関東軍官舎」と呼んでいたほど関係者は集団居住をしていました。そしてその家族等にとっては「男の階級」が「地域内の序列」でもありました。(そういった集団を統率するためには軍内での警察権をもつ「憲兵」による指揮が必須だったのであろうと受け止めています。)
真っ先に運行された疎開列車ですから終戦時には一番遠くまで達していたことは自明のことです。でも、列車の数には限りがあります。一応は安全とする防衛計画線の後方、即ち鴨緑江南岸に達した集団はそこで降ろされました。それらの人々のために「内地」へ移送中の高梁(こうりゃん)も3列車分がそこらに止められたそうです。それからの経緯は藤原てい著「流れる星は生きている」に詳しく記録されています。
もっと書きたいことはあるのですが、菅原幸助さんのご心情に通じるものが有りすぎますので、ここらまでとさせてください。 最後に付け加えるとするなれば、たとえ「生命」といえど「多数の安全・保護」のために「少数」は所詮「小の虫」・・・。(ゴメン、字数オーバー)

549. Re.辛い思いでだけど・・・ 2004/04/21 (水) 15:51
お話、聞かせてくださって有り難うございました。本当に。 ワタシは約40年間生きてきて初めて 自分から戦争のことを聞こうとしました。

560. さんミッケ♪ 2004/05/28 (金) 15:46
ここで断ち切らせてしまってはいけないのですね。
被差別という 「課題・条件を共有するものすべて」 がいかに協同し、協調し、調和したかを歴史のなかから取り出す・・・
アイヌ神謡集の企画 始まって約2週間になるのですね。 おやじっちは いつおでかけ予定ですか?

563. いつものことながら・・・ 2004/05/30 (日) 20:22
元気が出ると「すぐにこれなんだから・・・」と言わないでね。これが私の「学習」なんですから、乞ご容赦。
> 被差別という 「課題・条件を共有するものすべて」 がいかに協同し、協調し、調和したかを歴史のなかから取り出す・・・
私はこの文を「『被差別』という課題・条件を共有するものすべて」と読んでしまうのですね。「優勝劣敗」「弱肉強食」を「絶対」の「是」とまではしなくとも、その「社会構造」を意識するしないに関わらず継承をし、ささやかな「幸福感」を味わっている人々の「無関心」を煽ることとなりはしないでしょうか。 私は少なくとも「『人権』を守るという・・・」と言いたいですし、さらには「『差別を許さぬ』という課題・条件・・・」と強めたいです。 そのように言うと私の持論「対立の図式」と反するように受け止められるかも知れませぬが、私はまだまだ(私を含めて)「人権」という「概念」をしっかりと身にはつけていないことに気づかず、いわゆる「共同幻想」の中に身を置いているような「疑念」を抱いているのです。
従って「優勝劣敗」「弱肉強食」という個々の意識が、「被差別」という抗いを「無視」し「蹂躙」をし、「差別」という多数者集団形成に至らしめた「歴史」こそ問うてゆかなければならないと考えているところです。
ちょっと理屈っぽかったですかな?乞ご判読。

564. いつものことながら Part2 2004/05/30 (日) 20:49
菅原幸助さんについては、「共通」のというより「共有」できる体験をもつものとしての親近感を抱いてきましたが、解決を図るべき課題としての「人権」意識に若干の相違を感じ始めました。 その第1は、貝沢 正さんらの活動を「本州の同和対策とアイヌの同化運動が手をつないで前進すべきである」と看ておられるところです。私は貝沢さんのお名前だけは幾度か拝承申していますけれど、未だ浅学にして、お考えを承知いたしてはおりません。しかし「アイヌ」の「人権」を主張なさっておられるお方が、しかも「同和教育」の「共通課題」として問題提起をなされながら「同和対策(教育)」へのご理解はともかくとして「同化運動」を肯定するような訴えをなされるとは考えられないのです。 ここに菅原さんの「避難行」に対する「被害者意識」のみを観る思いが致します。
また、「アイヌ」民芸品として一般にもてはやされている「木彫熊」を批判なさる貝沢さんのご主張は判りますが、それを「部落」の伝統工芸になぞらえる見方が貝沢さんのお考えなのかどうか、あるいはそのようなまとめ方をなさった菅原さんのご認識なのか、疑問に思うところがります。
戦後、二風谷の教育に尽くされた穂坂 徹校長先生のご活動の一端も紹介をされています。あるサイトで戦後における穂坂先生教育実践を窺い、「同和教育」の開拓・先駆者も斯くやと感じ入りましたが、そのようなお方が「アイヌ」の青年たちを先導して渡満なさった意図(『丑松』的?)、そして現地の方々との関係(日本人は白人に対してある種の劣等感を持っていた。その日本人が満州や支那大陸では 中国人に対してある種の優越感を持って彼らを軽蔑していたようです。と、他人事のように述べられたようですが)、など。それらも先生の引き揚げ帰国後の教育実践の中に息づいているのであろうと、思惟し始めています。
それにしても「元気」と「課題」は「子連れ狼」なのかな?
565. いつものことながら Part3 2004/05/30 (日) 21:00
さらに、穂坂 徹さんは、 「アイヌはアメリカのインディアンよりも悪く、黒人問題に近い、深刻な悩みをかかえています。」 と述べれれていますが、それにはそれなりの経緯があったと理解できます。と言いますのは、明治4年7月、北海道庁はケプロンというアメリカ人を招いて、「合衆国」が没収したインディアンの土地をどのように白人入植者へ分配したか、などの助言を得ているようです。
下って、昭和15年には「朝鮮総督府」が内務省を通じて「北海道庁」へ「朝鮮人の氏設定に関し参考と致度」「アイヌに氏を設定したる最初の年度及びその経緯事情」の教示を求めています。
ひるがえって考えてみると、幕末からの近代日本の外地(北海道も終戦までは「大日本帝国憲法」の完全には及ばない外地だった)経営の下敷きとして、「北海道開拓」があったといって良いのでは無かろうかと考えているところです。
ちょっとした「アレッ」「コレハ」と書き留めたことを、無作為に書きならべてしまいました。「ズレ」を糾していただけると有り難いです。

571. 迂闊でした <(_ _)> 2004/06/03 (木) 23:13
大部の資料をご紹介下さり、ありがとうございます。
私の「いつものことながら・・・」に続く「追加」によって、菅原幸助さんのご著書が昭和43年であったことに気づかせていただきました。従って、前述の「いつものことながら・・・」が、時代背景?を抜きにした所感であったことに初めて気づいた次第です。真に迂闊でありました。
その当時を思い返せば、昭和40年8月に「同和対策審議会答申」が出され、それに基づく「同和対策特別措置法」が公布・施行されたのが、昭和44年7月でした。私が「部落差別」に気づき、「部落問題」を識ろうとし、「同和対策審議会答申」が指摘した「『部落差別』を無くすことは『行政の責任』であり『国民的課題』である」ということを考えるようになるまでには、まだまだ、数年も後のことでした。 決して己を擁護するつもりはありませんが、私は「部落解放運動」がいわゆる「解同」と「正常化連」に分裂してゆく過程も単に運動の多様化位にしか看ない、というよりもそれを「自然」と観る社会の視点があったような認識も持っております。
以前にもご紹介したかと憶えるのですが、その当時といっても昭和46年のことですが、「コタンの痕跡」という「旧土人保護法廃止」へ向けた論文集が旭川人権擁護協議会より出ております。この書も敢えて「どちら」かと言えば、「アイヌ」の「同化」は終末に近く「旧法」存続の無意味さを主張しているように私は受け止めます。
それらに比べるとズーッと新しくなりますが、菅原さんと同じような嘗ての新聞記者が著された「アイヌ民族」と言う書も最近読みました。その書の私なりの読後感、「中正な事実の記述を使命とされてきた新聞記者の著作」が、ご紹介に預かりました「現代のアイヌ −民族移動のロマン−」にも重なって見えて参りました。
ただ、この元新聞記者のお二人に共通している「社会意識」、「アイヌ」感には次に引用する「偉い」先生方同じ視点があると観ます。
以下、字数に限りがありますので、別項とさせていただきます。

572. 気がつくままに・・・ 2004/06/03 (木) 23:17
萱野 茂さん37歳時(註:1978年?)の大学教授との討論をご紹介戴きました。
> アイヌ文化はいまにして完全に調査しておかないと、 > 君たちのような若い人たちによってアイヌの文化は消えてしまう。 > アイヌ文化といっても、これは日本の古い文化の一部だ。 > 私はアイヌを他民族だとは考えていない。 > 大和民族のつまり北方文化を調べているのだ。
この言葉と、金田一京助さんの知里幸恵さんへの語り(註:1918年)が重なって聞こえてきます。 幸恵さんは尋ねます。「私たちのユーカラにそれほどの値打ちが有るものでしょうか」と。 金田一さんは答えて言いました。
「私は、全財産をこれに(註:ユーカラ研究)傾けても、全生涯、 これに没入しても、惜しいとは思わないんだ。ただし、あなたがた は、違いますよ。あなたがたは、古い事などには、構い無しに、 どんどん新しい事を勉強して、後ろ指さされない立派な日本人に なって下さい。 私は、諸君の後から、落ち穂を拾うつもりで、 これを拾ってゆく。」 と。
このように説き聴かされたお二人のその後はみなさまもご承知の通りです。
でも、研究者の先生がみなさんこのようなお方ばかりでは無かったことも遺されていす。泉 靖一さんの逸話です。調査のために訪れた先で「罵倒」されます。
「おめえたちは、カラフト・アイヌがどんな苦労をしているか、 どんな貧乏をしているか、しるめえ。それにのこのこ、 こんな所まで出かけてきて、おれたちの恥をさらす気か!。 それとも、おれたちをだしにして金をもうけるきか!。 博士さまになるきか!。」 と。 これ以来、泉さんは「学問」と「ヒューマニズム」の狭間で「フィールドワーク」から退かれてしまわれたそうです。
「差別」「被差別」「反差別」など、「部落問題」に限らず、いろいろな「人間模様」を識ることができました。

575. 粗い文章で済みません。 2004/06/03 (木) 23:47
「コタンの青少年を本州の大工場へ」との運動を取り組まれた(いつの頃?)酒折久男さん(三五歳)らのご紹介もありました。
「『森と湖の祭り』(武田泰淳著)を読んだことがありますか。 あの小説の中の一節でアイヌ学者が女画家に言う言葉があるんです。 『アイヌは悲惨な過去をすっかり忘れ、日本の労働者、 農民としてしっかり生活を築いてゆく。 その前進に融け込むなら、いまさらアイヌだ、ウタリだとか、 セクトにかたよらずに未来の幸福を切り開く路へ 進軍した方がいい』 とあります。あそこが好きで、何回も読みました。 ボクの考えていることをそのままに表現しているのです・・・」
若い木彫師たちのいきざまもご紹介をいただきました。 「ボクたちはアイヌから逃げ出し 日本人として生きるために 努力してきたがアイヌを逃げ出すことができないことを悟った。 それならアイヌを看板にして生きてみよう。 それも滅亡していく哀れなアイヌでなく、アイヌ芸術を身につけた 優れたアイヌとして生きていこうと考えたのです。」
「将来、いや現代の社会にはアイヌ民族は存在しないことに なっている。ボクは実在しないアイヌ民族を彫刻の中に求めて いこうと思うのです。(以下略)」
また、菅原さんは別の面からも「同化されてしまうアイヌ」の苦悩を述べておられます。
・・・このひとたちはアイヌの団体にも近寄らず ウタリの人たちが訪ねていっても冷たく、素知らぬ顔をする。 それでいてやはり「アイヌである」という宿命からは抜け切れず、 ひそかにアイヌ厚生事業に資金を贈ったり、ウタリの動向には 非常に気を配る。 そうしたアイヌの成功者たちは人知れず陰で苦悩を抱えた生活 を送っているのである。 「アイヌを意識して前進するのがいいのか、 アイヌを忘れて進むのがいいのか。 成功者たちもやはり悩みはあるのです」 と。
私は、ここに「大東亜の盟主」として大陸に渡った日本人の「尊大さ」をみる思いが致します。菅原さんには避難列車の予期せぬ急発進に取り残された「仲間」への想いを、「生活」を奪われ、「人権」をないがしろにされ続けている他者にも広く及ぼして欲しいと願うのです。
私自身の30数年を顧み、重ね合わせながらの思考、そのあら筋を略記させていただきました。
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