| 2007年05月05日(土) |
昔遊び/ 『橋のない川』 と 虫貝(バイ) |
橋のない川〈一〉 橋のない川〈二〉 橋のない川〈三〉 橋のない川〈四〉 橋のない川〈五〉 橋のない川〈六〉 橋のない川〈七〉
橋のない川〈一〉
「孝二。これ」 誠太郎は、握っていた右手を孝二の目の高さで開いた。・・・ “虫貝(ばい)のようだが?”首をかしげる孝二に、誠太郎は笑いかけて、 「これ、鉄虫貝(かなばい)や。こいつ、強いで」・・・ 「ふーむ」・・・ 「これ、どうしたん?」・・・ 「豊さんにもろたんや。大阪では、蝋虫貝(ろうばい)より鉄虫貝がはやってるんやて。こいつは蝋虫貝みたいなもん、一ぺんに負かっしょるで。」 「ほんまけ?」 「ほんまや。嘘や思たら、一ぺん、勝負、いこか。」 孝二は、部屋のくらがりをさぐっていたが、やがて三つの蝋虫貝を見つけ出した。 誠太郎は、手早く鉄虫貝に綱を巻いた。・・・ 誠太郎は、威勢よく言って、さっと綱をひいた。孝二も負けずに綱をひく。畳二枚分の板の間の中央、二つの虫貝は、時に近づき、時にはなれ、互いに呼吸をはかるかに見えたが、やがて鉄虫貝は右肩を斜に切りかえて、さっと相手に体当たりだ。 ごろ、ごろ。蝋虫貝はあえなく二横転。もう死んだように動かない。そのまわりを、鉄虫貝はなおも勝利に酔うて懸け廻る・・・。 「へえー。どんなもんやいうたら、まあ、こんなもんや。ふふふふふ。」・・・ 「どうや、もう一ぺん行くか?」 「うん。こんどは、こいつや。」・・・
「もう虫貝はしまいにし。」 ふでは怒り声を出した。 孝二は少々ばつが悪く、そっと母から虫貝を受け取ったが、たちまち彼も虫貝の傷に気がついた。 「あっ。この虫貝、けがしとる。」・・・ 「この鉄虫貝は、火の中でかんかんと打たれた鉄やさかい、大砲の弾丸みたいに強いのや。孝二、ほしかったらやるで。どや?ほしいけ。」 「いらん。」 孝二はかぶりを振った。くやしいのと一緒に、孝二は悲しかった。彼の蝋虫貝は生きていた。それは肉の代わりに蝋をつめられてはいたが、しかしそのつやつやしい皮膚に依然として紫色の斑点をとどめ、孝二の巻く生命綱で、よくその生命を吹き返し、時に応じて高く低く歌をうたった。それはまた、うまれて一度も海を見たことのない孝二に、海の話もつたえてくれた。 海貝の虫貝は、孝二にはかけがえのない遊び友達だったのだ。・・・
「起きよか?」 誘いかける誠太郎に、孝二は枕元の鉄虫貝を指して、 「兄やん、まだ、それやるのけ?」 「やるとも。こいつで、いっぱい勝ったるネ。」 「・・・ ・・・。」 「みんなの持っとる弱虫の蝋虫貝を、こいつで負かして取ったるネ。」 「かわいそうやで。」 「誰が?負けよる奴か?」 「ちがう。虫貝や。」 「なんで虫貝がかわいそや?」 「人にけんかやらされよるさかいや。」 「・・・ ・・・。」 「虫貝はむりにけんかやらされて、けがしよるネ。」 「ふふふふふ。」 「ほんまやで、兄やん。虫貝は、もうけんかしとうないで言うとる。わし、大きなって、海の方へ行けるようになったら、虫貝をみんな海へほかしたるネ。海は虫貝の家やもの。」・・・
さて、祖母と母が立ち去るのを待って、誠太郎が言った。 「孝二。あの、お前はんの蝋虫貝な、あれ、早いとこ海へ帰してやったらどうや?」 「海?せやかて、わし、海へはまだまだよう行かん。」 「せやから、わし、ええこと考えたんや。ほら、あの葛城川な。あの川、ずーっと流れて大阪の海へ行くんやで。」 「あ。」・・・ こんなうれしい事が、こんな楽しい事が、こんな愉快なことが、またとあろうか。 「いつほかそか、兄やん。」 「ほかすときまれば早い方がええ。」 「じゃ、学校へ行きしなか。」 「そうや、せやけど、大橋の上からほかしたらあかぬなア。」 「せやな。あねん高いとこからほかしたら、虫貝は目をまわしよるものな。」 「せやから、川の中へおりて行て、あんじょう、水の中へ入れたらなあかぬ。」・・・ 「兄やん、虫貝のことは誰にも言わんとこな。」 「うん。内密や、せやけど孝二、お父ったんはもうみんな聞かはったで。」 「お父ったんは別や。」 「じゃ、早いとこ朝飯食うて、みんなより先に堤にいこ。そうして、海に近いように、出来るだけ川下へ入れたろ」・・・
橋のない川〈三〉
兵隊さん。バンザーイ。・・・
さて、大橋を渡り切ろうとして、誠太郎はふと孝二を振り向いた。 「な、孝二。思えばわしら兄弟も大けなったもんや。」・・・ 何を言うつもりかと、孝二は誠太郎を眺めた。・・・ 「あははははは」 笑いながら、孝二はこみ上げる涙と闘った。 「それから、あの虫貝(ばい)や。わしはあれから人間が変った。」 「・・・ ・・・?」 「あの時お前はんは、“虫貝は可哀そうに、人に無理やり喧嘩やらされて怪我しよる。”こない言うたんやで。わしは、ほんまにあれで眼がさめた。とにかく、子供のじぶんは、何かとたのしかったなア。」 「兄やん、これからかて・・・。」 言いさして孝二は声を呑んだ。 「うん、それはそうやな。」・・・
水音にも春を含んで、葛城川は豊かに流れてゆく・・・。 孝二と誠太郎は、やがてその豊かな流れのあとに八木への道を急いだ。
橋のない川〈四〉
豊太は言った。 「あれは小森が火事になる前のことですから、たしか僕が五年生の時のことです。運動場の霜解けを防ぐために、全校生徒で葛城川から砂を運ぶことになりましてね。例によって僕は誠やんといっしょに砂を取っていたところが、ふいに誠やんが“あっ!”と大きな声を出したんです。・・・誠やんは何も言わずに川下に向いて走り出しました。・・・僕はやっとのことで追いついて、“けがはどこや?”とまたしても訊いたところ、誠やんは、“けがはこいつや。”と言うて手をひろげて見せたんです。誠やんが“こいつ”と言うたのは、なんと、一つの蝋虫貝だったんですよ。・・・
それから誠やんは、どうしてその虫貝が怪我をしたのか話してくれました。僕は、僕が誠やんにやった鉄虫貝のために、孝二君の蝋虫貝が怪我したのがわかってすっかり後悔しましたよ。 ところで、誠やんは、海に帰してやるつもりで葛城川に流してやった三つの蝋虫貝のうち、一つだけ未だに砂の中にもぐっていたのは、やっぱり怪我しとるせいやから、出来るだけ川下の、水のあるとこに移してやろうと思うて走ってきたんだというんです。だけどこんな事が他の生徒にわかると、あいつ、阿呆かいな、というて嗤われる。嗤われるだけですむならいいが、もしその話が広がって孝二の耳にはいりでもしたら、孝二はどんなに心配するかわからぬ。孝二は、川に流してやった三つの虫貝は、もうちゃんとふるさとの海に戻りついたと思うてるにちがいないさかい。せやから今日の事は絶対に秘密にしてくれ、いや、わかった。必ず秘密にする・・・。と、まあ、こんなわけで僕と誠やんは指切りしたんです。・・・
ところで、話はこれだけじゃないんです。・・・大鳥校長が早速僕らを見つけてやってきたんです。そして“今頃、のこのこ砂を運んでくるのは、きっと何処かにかくれて遊んどったからだろう。そんな奴は罰に砂山に立っとれ。”と、こうなんです。しかし僕も誠やんもかくれて遊んでいたどころか、その前に三回も砂を運んでいて、他の者より多くても決して少なくはなかったんです。けど、そんなら今まで何処に居たのかろ言われると、一寸困るんです。虫貝のことは飽くまでも秘密にしなければなりませんからね。それで言われるままにおとなしく砂山に立ってたわけです。・・・
そのうち、虫貝がむりやり人に喧嘩やらされて怪我するように、兵隊も戦争が好きでもないのにむりにやらされて死んだり怪我をしたりする、というような話になりましてね。・・・そしたら誠やんは“兵隊になったら、もう誰にもエッタやのヨツやのとは言われまい。たとい戦争で弾丸の下をくぐらされても、エッタやヨツやて言われるよりまだましや”と、こう言うんです。僕は居たたまれなくなって・・・なんぼ校長がどなったかて、もうおとなしく罰なんか食うてやるもんかと・・・。学校からの帰り道、僕が涙を流して泣いたのは、あとにもさきにもこの時きりです。・・・
しかし今になって思うと、泣いたその日が僕には一番しあわせだったんです。僕は人間に絶望しそうになると、必ず三つの虫貝を思い出します。いや、そんな時は虫貝が助けにきてくれるんですよ。すると、絶望が希望に変ってきて、僕は人間が好きになり、生きているのがたのしくなるんですよ。・・・
虫貝の話はぬきにしても、僕は人間の魂のふるさととしてやはり小森にひかれますね。それというのは、人間を人間と思わぬ人間、人間を人間として尊敬することを知らぬ人間のところに、人間の魂が人間の魂らしい美しさで生きているわけがないからです。村上さん式に言うなら、人間に上下、貴賎の別ありと思っている人たちは、鬼に魂をきずつけられた“不具者”なんですよ」・・・
そのような心の“不具者”には、五本の指が四本に見えても敢えて不思議ではないかもしれぬ。また嬰児に乳をふくませる母親を目前にしても、なお母子の血が冷たいもののように錯覚されるのも無理ないことかもしれぬ。 それにしても人間の知性とは、そのようにたよりないものなのだろうか。・・・ 「あははははは。」 爆笑して孝二は起き上がった。
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