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2006年07月19日(水) 『餌取り語源説』

『差別の執念』
 盛田 嘉徳 

 國學院大學教授の瀧川政太郎氏が、かつて昭和三十四年一月に、自由民主党同和問題議員懇談会の依頼で、「歴史上より見たる同和問題」という講演をした。・・・

 「鷹のねい猛性を保持していくために、絶えず鷹に生肉を食わさなければなりませんが、生肉は何がいいかというと、犬の肉が一番いいのであります。・・・ですから鷹飼即ち犬殺しは鷹の餌をとるというので、餌取と呼ばれました」と、従来、エトリの称が転訛してエタになったといわれてきた通説をふまえて、犬殺しが即ちエトリであるとこじつけるために、敢えてとりとめもない論証をこころみ、病気の鷹には犬の前足を食わせれば直るというデタラメなことまで述べてある。

 今日では、エタはエトリの転訛であるという説には、疑問が持たれていて、エタという語は、最初は清掃人夫に対する隠語として使われていたのが、次第に日雇的雑業者を呼ぶ名称に拡げられてゆき、やがて、その日雇人夫を中核とした社会的身分を意味するものに転用されたと、考えられている。
 
 しかし、瀧川氏が古い通説に従ったからといってそれを責めるわけにはいかぬが、ただ、餌取りということばから、犬殺しへと飛躍していく思考に、瀧川氏の差別的な偏見が認められるのである。

 当時、鷹の餌として普通には小鳥が用いられていて、それが不足した場合に、にわとり、犬などの肉も使われることがあった。しかしそれは、あくまで補助的な飼料にすぎなかったのである。
餌とする小鳥を捕らえるのが餌取りで、後にこれが餌刺しと呼ばれるように変わった。

 こうした点を瀧川氏はよく調べないで、犬殺しとエタを結びつけるためにのみ急いでいる。

 それは、以前には都市周辺における部落の貧困者の中に、生活のために犬取りを業とする者があり、その印象に基づく差別が根強く残っていて、瀧川氏の心にもそれがひそめられているからである。・・・ (『部落解放』七号、解放出版社、一九七0年四月 所載)



『賤称語源考』
 盛田 嘉徳  

 エトリ語源説は・・・音韻的にも無理が無く、一応安定した完璧な意見のようであるが、しかし細部にわたって検討を加えてみる時、重要な点について二、三の疑問が残るのである。

 その第一は、古くから河原に住んで、死牛馬の解体処理をし、皮革を製造していた人びとと、餌取りとが、同一の者として考えられているらしい点である。・・・

 養鷹の口電書類を調べてみると・・・鷹の餌について・・・と、やはり雀ばかりで養っている。これらによって考えうることは・・・小鳥や兎などを求めるために、餌採集者は河原よりもむしろ、野山に縁が深かったであろうこと、などである。念のために、大阪市立動物園を訪れて、飼養係で承ったところによれば、「・・・総体に、鷹は小食であって新鮮なものを好む。・・・昔は保存が悪いから、一頭の牛でも、どれほども飼料としては使えなかっただろうと思われる」ということであった。・・・

 まず、餌取りと屠者との関係に疑問が生じてくる。だいたい、牛馬の屠殺が禁じられていた当時において、わが国に屠児といえる職種があったとは考えられない。「倭名類聚鈔」の「屠児、和名恵止利」という記し方をみても、この屠児という語は、漢籍や仏典に出てくる言葉で、わが国のものではないことがうかがわれる。

 河原には古くから死牛馬を解体して皮革をとる皮はぎや革なめし、皮細工をする職人が住みついていた。この人々の仕事は一見、屠者に最も類似するもののようだが、しかし「生を殺して肉をとる」ものではなく、たとえ彼等が肉食をしていたとしてもそれはあくまで副次的なことにすぎず、職分はむしろ皮革加工に属するものであった。

 したがって、屠児の訳語に当てるには適切を欠くうらみがあり、当時生肉を提供する職業といえば、一般的に肉食の風のすたれた時代でもあって、特に都の近くではわずかに鷹のために生き餌を補給するエトリより他になかった。

 こうして、屠児の和訓がエトリと決められていったところから、屠児、皮はぎ、皮細工、河原に住む人々、餌取り等々について、観念的な混乱が生ずることにもなったのであろう。・・・ (『部落問題研究』十五、部落問題研究所、一九六三年十二月初出)


「所謂特殊部落ノ種類」柳田國男
「定本柳田國男集 第二十七巻」より(大正二年五月、国家学会雑誌)
 一

 穢多非人の問題は必ずしも単に歴史上の珍たるに止まらず、現在の社会生活に対しても大なる交渉あり。

例えば「エタ」と云う語は、塵添蓋嚢抄(じんてんあいのうしょう)以来の通説によれば、犬鷹の為に食料の肉
を供給する職業即ち餌取の転化なりと称す。

仏道の教義に照らせば罪深き行為なるべきも、未だ之に従事する階級を賤視するべき理由とはならず。

餌取と云う文字には別に賤しき者という内容を具えざるなり。

然るに久しき以前より之に宛つる穢(ケガレ)多しと云う漢字を以ってしたり。

明治の世となりて公に革太或は穢多なる文字の使用を廃せらるるや彼徒は歓呼せり。

而もしからずして其代用たる新平民と云う語は小児などが人を悪罵するときの用語となれり。

近頃内務省は又之を避けて特殊部落の文字を用い始めたるに、程無く此語も亦甚だしく彼等の忌嫌うものとなり、
終には細民部落と書き下に括弧して小さく特殊などと書くに至れり。

要するに彼等が部落を特殊なりとする一般の思想存ずる限りは、百の用語を代ふるも無益にして、事実に於いては
今日と雖彼等が部落は特殊なり。・・・

 二 

 雖見を以ってすれば現今等しく特殊部落と称せらるる階級の中にも、著しく其経済上の条件は社会上の地位を異にする色々の種類あり。

其中に於いて最多数且有力なるものは勿論当穢多なり。
其他の特殊部落は地方に由りて名称並びに生活状態甚だしく区々なり。
且之を細別すれば数十の種類あるかと思はる。
之を総称して簡単に何と呼ぶが可なるかは未だ考へ得ず。
非人と云ふ語は少なくとも近世の用法として単に其中の一小階級をのみ指せしものの如きも、穢多非人と云ふ熟語は通俗且便宜なれば、仮に穢多以外の特殊部落を概括して非人と名づけんとす。素より彼等には内々の使用なり。

 穢多と非人とは全然異なりたる種族なりとするは此迄の通説なりき。
而も余輩は未だ之を信ずべき十分なる根拠を見出す能はず。
二者の区別として仔細に比較すれば色々の点あれど、其最も見易きものは穢多は死畜を取扱ひ他は然らざること是れなり。
此故に前者を皮商売又は革太革坊革屋などと呼ぶ。
今日も大体に於いて革を製せざる者は皆穢多に非ず。
或は穢多は死獣を取扱ひ非人は死人を取扱ふと云ふ者あり。
此も大なる誤なし。
但し二者何れにも関係せざる特殊部落も少なからざることを忘るべからず。

穢多は何れの地方に於いても部落比較的に大きく、其生活の異風は顕著なるが故に人に注意せられ易し。
之に反して非人の事は誠に世人の観察を逸せり。
其結果として特殊部落と謂へば即ち穢多のことと考ふる者あり。

柳君の著「穢多非人」は二十余年前の研究としては奇特千萬の書なれども、此二者の区別を怠り混同多し。
而も実際問題としても学問上の調査としても右は左様にて軽視せらるべき事柄に非ざるなり。
徳川時代には江戸に弾左衛門ありて穢多を統べ、車善七及び品川の松右衛門ありて非人を統領せしことは人善く之を知る。

弾の部属は今日も存在し其首領は人之を弾さんと呼び昔ながらの浅草区の紳士なり。
然るに善七松右衛門が 類は全く分散し尽くしたるものの如く、彼等は其後如何に成行きしか此間の消息は之を解する人多からず。

抑も江戸時代の非人とは如何なる者か。
普通非人乞食(ヒニンコツジキ)と云ふ語あり、非人とは乞食のことと思ふ者あり、或は又常人が貧乏して乞食をする状態を意味する者と思ふ者あり。

江戸時代の武家の法制として情死を仕損じたる者其他の犯罪者等を非人の仲間に降ろし入るることありしが故に、之を以つて彼等の常態と為し、非人はもと此等の常人より構成する者なれば、外部の圧迫にして徹せらるれば 元の古巣に立戻ることあれども勘当を受けたる不良少年が親の家に帰るが如く解する人もあるべし。

成程芋を洗ふが如き大都の社会なれば、人間の屑の掃溜に集る者も少小には非ざりしならんも、斯る烏合の連中のみにては昔とても一箇の階級を作ること能はざりしは明なり。

殊に田舎の小団体の非人部落に在りては、右の如き時々の供給を予期すること難く、必ずや別に其団体を構成するだけの本来の中堅なかるべからず。

乞食も本物の乞食は世襲なり。
況や広義の非人の中には昔より も新分子を加へざりし明証ある者多し。

決して通俗の説の如く常人の零落したる者の世を忍ぶ仮の名なりと認むる能はず。

然らば彼等非人は如何にして此国に存在するに至りしか、此問に答え得れば江戸の非人の後日物語も自然に判明すべきかと考へらる。


 三 


 先づ順序として穢多の方面より説き出さん。
穢多と非人との異同優劣如何は、滑稽なる話なれど彼等が間にてはある重要なる問題なりき。

江戸にては弾左衛門は幕府の非常に厚き保護を受けて勢力あり。

車善七と訴訟して勝ちたるは有名なる話なり。
其寛文年中に差出したりと云ふ由緒書及証文に於いては鎌倉に於いて頼朝より免許状を得たりと主張す。
かの宛名を頼兼と認めたる源氏の下し文なるものは、形式より判断して疑も無き偽物なり。
但ししょうしょう古き時代の偽物なり。

此下し文には我々が仮に非人の総称の中に包含せしめたる釘打鉢叩蓑作渡守其他二十九種の職業はおそらく彼が支配の下に立たしむべしとありて、穢多総取締の非常なる大勢力を示せり。

然るに田舎に於いては之と正反対なる慣行少なからず。

例へば鉢叩と同種なる茶筅又は鉢屋の類は一般に穢多よりは一段上の者と認められ、通婚はせぬ迄も相火(あひび)を忌まず、彼等も亦農作を営み人別帳は分離しても百姓同志の交際は公認せらるるあり。

南都奈良阪の「シュク」の如きは、穢多に臨むこといえども平人が彼等に対すると同じ位に威張り、今日は外見殆ど普通の小農に同じく、只甚だしく筋悪しとして縁談など六つかしきも、金銭の都合にては必ずしも之を避けず。

伊勢にても之と同様にて、曾て竹葉寅一郎君より受けたる報告には、「シュク」は特殊部落にては無之候とありき。

備中の「サンカ」は穢多と同視せられて大に怒りたり。
備後も福山領までは茶筅は一級上流と認められたれど、廣島領に入れば習藩の公募にては穢多と茶筅鉢屋とを区別することなく、芸藩通志には悉く之を屠者と記し、近頃内務省が受取たる調査書には某村革屋一名茶筅などとも見えたり。

斯の如く習慣は地方的に区々なれども、一般の感じより言へば先づ穢多を以つて最も低きものとするが如く、而も彼等の根源元は一つなりと言はば、双方ともに驚きて之に抗議を為すべきは今猶昨の如きなり。

 賤者考の著者其他此迄の学者にも稀には此区別に留意したる者あれど、其人々は必ず一々の部落が其名称を異にする毎に各別箇の由来あるが如く解するを常とす。

名称に基く推測には従ひ難きもの多し。

蓋し特殊部落の名称は未だ彼等の自称に出づと信じ得べきものあらず。
若し近郷百姓の付与したる名なりとせば、其他の方言と同様に地方的に区々なるは当然の事にして、之を以って一々の来由を推論するははなはだ困難なりと云ふべし。

「エタ」は「エトリ」の転訛とする通説の如きも疑を容るべき余地なきに非ず。

殊に某博士等の如く「エタ」は餌取なるが故に古の犬養部鷹飼部などの雑戸の末なりと云ふは速断なるべし。

倭名抄には「エトリ」は漢語の屠児に当り牛馬の肉を販ぐ者とあり。

是は寧ろ唐土の屠児の註脚なるべく、之に由って犬養鷹飼を想像するは恐らくは餌取の文字に拘泥したる説たり。

尤も今昔物語の「エトリ」と称する食肉法師の生活と後世の「エタ」の生活とは似たる点あるも、此とても外部よりの称呼なれば甲は乙の先祖とは言ひ難し。

始めて穢多の文字を用いたる師守記に依れば彼等が職業は井戸掘りなり。

語の上より見るも「エトリ」の「エタ」と移るは甚だしく不自然なり。

仮に説を立れば「エタ」は下級の巫祝の名たる「イタカ」又は「ユタ」或は薩州などにて婢女の通称とする「エダ」などと関係なきを保せず。

要するに彼等が生活上の他の諸種の特色をも併せて照するに非ざれば容易に基本源を定むること能はざるべきなり。



四

・・・東北などの人口の稀少なりし地方は別として、其他の場合には既に普通民の居住せる土地に後より来たり、其明示又は黙示の許容の下に土着せしものなるべく、若し公然荒野の開拓に従事せりとすれば、到底斯かる不利益の条件に甘んずべしとは考へられざるなり。




 更に他の点より観察するも、多くの穢多の土着は足利時代の末頃ならんかと思ふ由あり。

地方々々の小領主が武具兵器の製作原料として皮革角爪の類を其領内に供給せしむる必要を生ずるや、所謂皮作業の招致は始めて断行せられしなり。

軍備が統一するか又は平和なる交易の行はるる時代ならば郷毎に皮太を住ましむるの要なければ也。

而して此事実を証する文書は武蔵相模等に住々存在す。

思ふに兵例の結果として居民離散し荒蕪多く、天然の威力盛にして島又は川原は年々新生したれば、此等の地に皮作を土着せしめ皮革の課役を徴せしなり。

其後世の中太平と為り畜類繁殖するに及び、彼等の生計は又別様の便宜を得たり。

革類の需要減ずる頃には取棄料を添へて死獣を引取る慣行を生じたり。

死したる獣類の肉を食ふことは亦彼等が生活上の一便宜なりき。

他の特殊部落と比べて現在人口の多きは一には食料問題の解決が簡易なりし為ならん。

維新以降牛鍋盛に用いられ靴流行し、更に日清日露の戦役を経て大金持になりし穢多多く、従て其政治上の力も著しく加はりたれば、強ひて旧来の職業を廃せしむることは困難にして且不必要の観あり。


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