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2006年07月16日(日) 奈良県の毛皮革業 


*『大和百年の歩み』商工編 編集;大和タイムス 昭和46年11月10日 株式会社 大和タイムス社 より *


 奈良県の革製品加工業は、グローブ・靴・鼻緒等全国的にも大きな地位を占める。しかし、製革業は明治維新後もあまりふるわず、近代的工場としては、明治二十九年、陸軍命令で設立された高田市市場の守道皮革製造所がほとんど唯一のものであったが、これも昭和十七年の企業整備で姿を消していった。
 
 こういった状況の中で、宇陀郡菟田野町□□における毛皮・鹿皮製革だけが、その命略を保って発展してきた。現在、毛皮業者八、下請け業者二十、鹿皮業者十、計三十八を数え、毛皮製作に従事する者五十人、毛皮製革後クビマキ・チョッキ等の縫製に従事する農家主婦の内職者六十人、鹿皮なめしに従事する者百五十人、計三百六十人。出荷額にして乙年産五億円と聞く。

 岩崎における毛皮生産の起源は明らかでないが、江戸期に小作農の副業として始まり、本業としてこれを営む者が現れるのは、明治も十年代のことであったという。
 発展のようすはわからないが、生産される毛皮のほとんどは兎の皮であり、一部狐もあつかっている。
 年産数量百万枚、原皮 兎はフランス・ドイツ産、狐はソ連・中国・アメリカ・カナダ産のアカ・ベニ・アオ・ギン狐を使用する。・・・

 目下原皮は、□□だけで年間三十万頭購入しているといわれる。ブラジル・タイ・西ドイツ・アメリカ・カナダ・インド・中国産のものを、商社を通して、あるいは現地との直接取り引きによって購入する。ブラジル産は袋物、タイ産は武道具、中国産小鹿はセーム皮に適している。製品比率ではセーム皮七割、武道具用白張二割、手袋・ピアノ用に染色されたもの一割である。ピアノ用は浜松へ、手袋用は香川県白鳥、三本松へ「売りの買い」という方法で、あるいは賃請けさせるという方法で送り、製品となった手袋を返送させ、問屋に売るという方法をとる。

 副産物としての鹿皮は、これを専門に刈り取る職人がおり、友禅染刷毛用として京都へ、毛筆用としては特産地は広島県熊野町、近くは奈良市にも送られる。屑皮は膠の原料として御所市へ送る。膠原料以外の屑皮は従来窒素肥料として売れたが、化学肥料の進出で需要が減った上、売り値が下がって屑皮乾燥に要する人件費を考えると採算がとれなくなり、その処理に困っているのが現状である。




『菟田野町史』(菟田野町史編集委員会編,菟田野町役場,1968)より

*藤岡勇吉*

父治右衛門の長男、安政元年(一八五四)三月二十一日生れる。
質性剛健、村人の信望篤く、明治三年一六才にして父を亡くし家業の筏藤(吉野川の筏に使用する藤)問屋を継ぐと共に、取引先の吉野地方の狩猟家より、狐、狸、イタチ、テン、鹿等の原皮を買い集め、大阪の商人と取引を始めた。
商機をみるに敏捷な性格は、この地においてこれら毛皮、皮革のなめし製造を思い立ち、明治二十三年(一八九〇)三十六才にして、伊賀、伊勢、京都方面から毛皮なめし職人数人を集め、初めて小工場を営んだ。
当時製品は「たつっけ」(伊賀袴)として白皮状で京都大阪三重方面に出荷され、大正期に入って原皮は主として大阪の堀江川口や神戸の南京町等より朝鮮、中国、タイ産のものを仕入れ、和弓の武具用として全国の武具店に、甲州印伝袋物用として甲府、東京等に出荷された。
明治四十四年剣道が中等学校正課に、大正元年日本剣道型制定等剣道ブームにのって、事業は順調に伸展した。
現在、町内五十余の毛皮及び皮革の製造加工業者あり、年産約五億円とする大きな産業に発展したその基盤を築いた。
大正六年(一九一七)十月七日六十四才で没した。

生前建立の成功碑(藤岡義男氏邸にあり)に左の銘を刻む

 勇吉姓藤岡家、安政元年甲寅参月弐拾壱日生 明治参年七月父治右衛門ニ別ル其後 々乎再興家政而於是祝還暦譲代男作太郎

 大正弐 癸丑 歳拾月自建之


二代目勇吉(本名作太郎・勇吉襲名)は大正弐年家業を継ぎ、益々事業を進展せしめると共に、昭和十七年五月旧宇太町役場(現西部公民館)を建設(木造瓦葺二階建・延九十八坪)し、之を宇太町に寄贈するなど公共に尽くした。昭和二十七年(一九五二)六月十四日六十一才で没した。







*『江戸期における部落への史的関心』盛田 嘉徳 (モリタ ヨシノリ) *
『近世部落の史的研究(上巻)』解放出版社、一九七九年六月 所載)

 一九世紀に入ってからも、餌取り説がもっとも有力で・・・みな同じように「倭名類聚鈔」を引用して述べ・・・餌取り説は、要するに職業起源説であり、また触穢説でもあって、屠食、皮革加工などと結びついて理解されていたので、それらの諸点からの考証的な研究が、一九世紀になってようやく始められることになる。・・・

 滝沢馬琴(『燕石雑志』、一八一〇)は、餌取り説を踏襲しながらも、白話小説の広い知識から、中国では屠児は単なる職業名にすぎないのに対して、エタは身分を意味する点に疑問を残している。・・・

 国学者石原正明(『年々随筆』、一八〇一)は、・・・触穢について考証を試み、その中で肉食の穢を検討した結果、「肉をほふるも、皮をはぐも」肉を食うのも、嫌悪にはならぬのではないかと考えるに至り、部落の触穢起源説を疑っている。






 明治・大正期に論ぜられた起源説のほとんどの原形が、幕末までに出つくしている観がある。・・・江戸時代における部落の史的解明は、着眼の違いはあっても、目標とするところは、つねに、差別の理由づけと支持に置かれていた点では一致していた。







*『菟田野町史』(菟田野町史編集委員会編,菟田野町役場,1968)「民俗」より抜粋*

人の一生
 
 妊娠から出産へ

 妊婦の食物と禁忌
妊娠中には妊婦のしてはならぬこと、食べてはならぬものが多かった。食物では、四ツ足のウサギを食べると三ツ口やス口の子ができる

(姫だるま注:ともに、古めかしい侮蔑的な言葉で、口唇口蓋裂〜こうしんこうがいれつ〜が適切な名称。また、口唇口蓋裂は先天性の障害であり、ただ単に、口輪筋および口蓋の組織が合わさらなかった、もしくは妊娠中にある組織が融合しなかっただけ。口唇口蓋裂についての正確な情報はコチラのサイトでhttp://www.widesmiles.org/)。

牛の道具(クラ)をまたぐと、頭の毛がギリギリの子ができる。火事を見ると胎児の顔に赤アザ、大水を見ると白アザが出る。また出産まで立腹したらいかぬとか、高いところへ手を伸ばすと、腹の胎児が手を放すといって恐れる。

 ヨナとアトザン
アトザンはサンバさんがきちんと包み、ヨナバカに埋める。ヨナは日の当らぬ、人に踏んでもらえる所へ埋める。またラントウ場へ埋め、親がまたいでおく。ほかにヨナステバというのがところどころにある。踏んでおかぬと、どういうことになるかといったことは聞けなかった。


 予兆と臨終

 死の禁忌
人間は本能的に死ぬことを避けたがる。そのため日常生活から死を遠ざけなければならない。故に次のような禁忌をわきまえ、心がけ、かりそめにもおかさないように努めねばならぬ。
植物=屋敷内へイチジク・シュウロ竹を植えるといかぬ。これはシュロは人間の血を吸うためという。椿も悪く、首から上がモゲル(椿の花の落ちる状態をさしている)。
方位=家の鬼門に穴を掘ったり、クイを打ったり、増築したらいかぬ。

 出棺の準備
 人形ダカセ
出棺が友引の日に当ると、シブトに人形を抱かせて二人のテイになぞらえる。そのほか友引には出棺を夕方にのばすのが多い。


ワイドスマイル(口唇口蓋裂)

ワイドスマイル日本語版より



第3回沖縄平和賞 ラオス口蓋裂センターに

 アジア太平洋地域の平和・非暴力活動に貢献した個人・団体を表彰する沖縄平和賞の第3回受賞者として、県は1日、沖縄・ラオス国口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)患者支援センター(西原町、仲真良性(りょうせい)会長、会員203人)を選定した。同日午後、稲嶺恵一知事が発表した。同センターは県内の歯科医師を中心に1995年に設立、琉球大医学部歯科口腔(こうくう)外科教室と連携して東南アジア諸国で多くの事業を展開、中でもラオスの口唇口蓋裂患者に多数の無料手術を行い、社会参加を促している。稲嶺知事は「沖縄の相互扶助精神を表すもので、人間の安全保障促進に貢献している」と評価した。授賞式は10月13日、名護市の万国津梁(しんりょう)館で行われる。
 沖縄・ラオス国口唇口蓋裂患者支援センターは当初は沖縄歯科口腔外科学研究振興会として発足。2000年から中国やベトナムで医療援助を開始し、01年からラオスで口唇口蓋裂患者に無料手術を行う一方、ラオスに治療器具などを贈呈している。
 ラオスは内戦の痛手から復興しておらず、多数の患者が十分な治療を受けていない事情がある。県は、沖縄と同様の戦争被害のある国での支援を高く評価。社会的に差別を受けている人々への支援が希望を与えると評価した。琉球王朝時代の1689年に高嶺徳明が国王の口唇裂を治癒させた歴史も念頭にあった。
 沖縄平和賞は2年に一度、アジア太平洋地域の平和実現に寄与した国内外の個人・団体を顕彰するもので、賞金1千万円。02年の第1回受賞者はアフガニスタンで医療活動に取り組む中村哲医師を支えるペシャワール会。04年の2回目は日本初の国連医療NGOであるアムダが受賞した。
 今回は59候補が挙げられ、2回の選考委員会(委員長・有馬朗人日本科学技術振興財団会長)を経て7月24日、同委員会が全会一致でラオス口蓋裂患者支援センターを選定、28日に稲嶺知事に報告していた。
(琉球新報) - 8月1日16時31分更新


掲示板より★ 2004/03/29(Mon) 22:26




ワタシは「アザ」
いまでは「シミ」に。

化粧
皮膚移植
・・・
当時から いろんな選択肢が あるものではあった

母と一緒に
専門家の方々の話を 伺って回るうち

最終的にどうでもよくなった

以来、言いたい人には言わしておけと


みんなそうなれるとは限らないが


ただ
ワタシが「強く」なったわけは
気の済むまで 母と さまよったからだったなと


こうしんこうがいれつの母子も
くじけるな


by 姫だるま








 ほんまに本気で
  やっているのけ

 奈良・□□支部 山の子子ども会


 先生、おいらは今の同和教育きらいやぜ。
 先生はほんまに本気でやっているのけ。
 学校でせんなあかんさかいやっているのとちがうけ。
 おいらの兄ちゃんや姉ちゃんを教えていた時分の先生は、
 □□をきろうとったやないけ。
 その同じ人間が急に今になって同和教育、部落解放っておかしないけ。
 先生どうしてかわったんぜ。
 それわかるまで、おいらは同和教育きらいやぜ。

部落解放詩集『太陽もおれたちのものではないのか』(部落解放詩集編集委員会 編 解放出版社 1980.8)

奈良・□□支部では、そこの青年たちが中心となり、集団主義思想(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)に基づく楽しい子ども会活動の指導にあたりました。そこから育った中学生たちの中に、この詩にあるような、「同和」教育を長欠・不就学対策などで地域へ出かけることと解していた一部の教師集団に対する叫びが生まれてきたのでした。





あ○るさんご紹介ありがと

HP『人権ステーション』
bbs“百家争鳴”
(渕本稔氏)

(また茶しばきにいこーねっ)


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