ワタシには、「部落問題は部落出身者が中心」だと、部落研という組織で頭にたたきこまれた歴史があります。
それで、部落出身者中心主義を見直そうという意見を耳にすると、警戒心を抱かずにはおれません。
しかし、ワタシに歴史があるように、そう意見を述べる人にも歴史があるのですね。
「部落出身者中心」は、具体的行動を、常に問題にしてきました。
「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」とも言えない人、またはその裏返しである「どうせやっても無駄(部落差別はなくならない)」と考えている人を中心にします。そういう人の立場に立ちきります(見捨てないのです)。
しかし現在は、「部落出身者中心」は、「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」(「部落排外主義」といいます)と言う人を中心にすることだという批判が出ています。
部落出身者(被差別マイノリティ)に対する不信がそれだけ強まっているのでしょう。
「かけがえのない生命(いのち)を大切に」という魅惑的な言葉があります。「部落出身者中心」は、「部落解放運動の原点」とも言われてきました。ワタシにとっての「部落出身者中心」は、「解放運動の生命(いのち)」と言い換えた方が通じやすいかもしれません。
さて、部落出身者にとっては、「部落出身者中心」は、「自分たちのことは、自分たちで語りたい」(これを難しい言葉で「融和からの脱却、自立」といいます)という根源的要求に当ると思います。
これは部落問題に限らず、昨今の状況を見るに、セクシュアル・マイノリティ問題や「障害」者問題、他の人権問題でも、譲歩することのできない「生命」に当たっているのではないでしょうか?
そういう視野でもって、「部落出身者中心」を再評価してみることを、まだやり残しているようにも感じます。
それから、「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」という意見に対し、部落研の友人たちは、「あとから生まれてきたということは、それを乗り越えるということや」と言っていました。「部落出身者は近道にいるだけ。部落問題はみんなの問題」、「自分は部落差別を肌で感じているから、他の差別もしない」と部落外の人間に対して言っていました。「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」という言葉には、彼ら(部落出身者)も傷つく、ということを了解いただきたいと思います。
被差別マイノリティに対する不信が強まった原因は何でしょうか(何があったのでしょうか)?
人それぞれだと思います(言えない場合もあると思います)。
ワタシには、それをお認めする勇気と懐の深さがまだまだ必要なのです。