人権�牋貽�100質��
〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2006年02月02日(木) 「差別事件としての部落差別」結婚差別事件


このたび、2/1の大阪での新たな「部落地名総鑑」発覚を契機に、これまでに起こった「差別事件としての部落差別」(1.結婚差別 2.部落地名総鑑 3.冤罪)を、過去の新聞記事の抜粋から、アップしました。

☆資料1結婚差別事件




「地名総鑑」事件発覚に先立つこと四年前、大阪府では住吉結婚差別事件が起こりました。

 1971年1月31日、大阪の住吉区のアパートで、浅野佳代さん(20歳)がガス自殺をしました。佳代さんの彼を女手ひとつで育ててきた母親は、「同和」教育の教師でしたが、二人の結婚に反対し、そのころ佳代さんは、徳島の実家に「結婚のことで、家のほうに興信所の人が調べに行くかもしれへん」と電話をかけていたそうです。1月30日の夜、彼の家でふたりの結婚について家族で話し合いがなされ、31日の昼頃、彼が喫茶店で家族で話し合ったことを佳代さんに伝え、それから数時間後に、佳代さんはアパートで亡くなっていました。その枕元に置かれていたのがつぎの遺書です。
 貴方に私は今まで嘘をついてきました。実は私は部落の人間です。私はかくしとおせるならば死ぬまでかくしたい、だから徳島へ一緒に帰るのがいやで、貴方と一緒に帰りませんでした。十日前から私は二人の間はもうだめだと思いあきらめていました。この十日間は私の最後の人生だと思って楽しんだつもりです。(略)私は何もいらない。ただ貴方が、私のそばにいるだけで幸福でした。
 十七の時に知り合って二十の時まで三年間、本当にやさしい恋人だったと思います。でもこれ以上私がいると、いつまでたっても貴方は幸福になれません。どうかこのつぎ女性を愛する時は健康で家柄の良い、お母さんに気に入ってもらえる人をお嫁さんにして下さい。お幸福に。

 結婚差別によって、これ以上尊い命が奪われることにはなりませんように。佳代さんのご冥福をお祈りします。



婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1970年5月25日号より)

 ”部落差別とは何か”柴田道子さん招き第一回講座
婦民ホール。参加者三十名。
年間三十名もの部落青年男女が、結婚差別によって命を絶っていく現実。
「おれは、夢と人間を奪われた。人間のしあわせが粉砕されない社会は、いつやってくるのだろう。おれにはわからない。おれはただ部落民であるということのみをのろい悲しむ。何といわれようがおれにはだめだった。二人の愛情がどんなにかたくても”部落”という二文字には勝てなかった。また二人でどんなに努力し、苦しみもがいても、このカベだけは破れなかった。
部落の青年男女のみなさん、まちがっても一般の人たちを愛人にもつな、そして恋をするな。その愛情が深ければ深いほど・・・差別、部落とはそんな生やさしいものではない。おれは身をもって体験した。
部落へはお嫁にやれないという人たちや、そういう社会に対し、おれは死をもって抗議する。おれは恋に破れて死ぬのではない、恋には少なくとも勝利した、しかし社会の古い封建制には破れてしまった。(中略)
同じ国の人間が同じ国に生まれて税金を納め、あらゆる義務をみんなといっしょにつとめているのに、おれたちの部落の何が悪くてこんなにきらわれるのであろう・・・おれにはわからない。
生きていたい、K子と晴れて結婚したい・・・だがいまはもう生きる頼りの糸さえ切れてしまった。泣くだけ泣いた。やさしかったK子の顔が浮かんでは消えてしまう。(中略)
もし許されて二度生まれてくることができたなら、どんなところでもよいから部落でないところへ生まれてきたい。」
女性の差別を許さず、女性解放を闘う私たちは、あらゆる差別を許さず、自らの人間的感性を洗い出し、研ぎ澄ましてたたかいを前進させたい。



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976年4月23日号より)

 部落差別を裁け
  久世結婚差別事件 京都府協議会
「久世結婚差別事件」とは部落女性中村道枝さんが、六年間結婚を前提に交際してきた高木信夫から結婚の意志がない上、口ぎたなくののしられ、ナイフで高木をさし、結果高木が死んだというものです。
この公判闘争を始めてから、いろんな事実を知り、信夫と高木の家族、道枝さんの勤めていた日本板ガラスKKの差別に対し、怒りがこみあげました。「結婚するまでは・・・」と九回もの中絶をさせられたこと、毎月道枝さんの収入の中から何万円も信夫が使っていたこと、その上いざ結婚の話になると母親と家族の意志で、他の女性との見合い、結婚話が進んでいたなど決して許せないものです。さらに公判廷で高木の母と姉は「部落はこわいと世間は言っている。差別したつもりはない」と居直りました。
公判闘争は部落差別を裁かずして道枝さんを裁くことはできないことをかなめに、差別糾弾をかかげて闘っています。公判では解放同盟婦人部長川本さんによる部落差別の結果としての結婚差別の実態、そのたたかいについての特別弁論がありました。婦人民主クラブは水平社以来の解放同盟に学び、日本の婦人運動を新たな質に押し上げる意気ごみです。

  *判決日1977年3月30日
   主文 被告人を懲役二年に処する。
       未決勾留日数中三〇日を右刑に算入する。
       この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
       押収にかかる小型刺身包丁一丁を没収する。



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1979年2月2日号より)

「部落青年とはダメ」
 本籍地に戸籍照合 親が仲を引き裂く 品川結婚差別事件
 
 解放同盟品川支部 差別性を暴く
これは、自分の娘の交際相手が部落青年であると知った品川区に住むY家が、その青年の本籍地に、差別的な戸籍照会の要求を出したことに始まりました。請求を受けた和歌山県田辺市は手紙の内容に問題があると市町名で返信を出したところ、昭和五十年五月六日付けで次のような手紙が入って再度の請求があったのです。
 
 家中で縁談に反対
Y家の手紙の内容は次の通り(原文のまま)
「わたくしの長女、M子二十四歳がA殿三男、B殿二十一歳と、昨年八月ハワイ旅行の折に知り合い両方で結婚したいと申しましたので、わたくしどもで大阪へ嫁入りとなればA殿の敷地の中に長男次男三男と同居と聞き、昭和四十九年十二月、東京より身元調査を依頼しましたところ、B殿より父が部落出身と電話があり、わたくしどもでも大変驚き、家中で悩みました。
B殿は十七歳のとき、自分の家柄に興味を持ち調べて知ったとのことです。それより悩みに悩んで一生結婚はしたくないと心に誓ったとの事です。
娘は私立の初等科、中等科、高等科、私立女子大(四年)と進み何不自由なく大きくなり、わたくしどもも花嫁姿のみれる日の一日も早い事を願い、いつくしんでまいりました。
家中の相談の結果、この縁談は反対と娘より伝えさせましたが、それより二人は親にかくして交際を始め、昭和五十年三月、失意のあまり(娘は)ロサンゼルスへ行ってしまいました(六ヶ月ほどお互いの心をみつめるため)
先方の長男のお嫁さんから、四月電話で何が気に入らないか言ってほしいといわれましたが、わたくしどもではとてもいえません。B殿は父及び二人の兄達も、この話はしたこともなく、兄達は知らないと言っております。
今は手塩にかけた娘は口もきかず、親子断絶のため家中重苦しい毎日です。
わたくしは(富山県出身)小学校の頃にクラスに部落出身の子が五名ほどおりましたが、口もきかず手もつながずという事ですごしてまいりました。
もし娘がB殿と家を出る事になりますと、A殿は義父となりますので知りたいと思います。
つたない文ではありますが、よろしくお願いいたします。
                    父 Y夫五十四歳、母 Y妻五十一歳
田辺市長 水野忠晴殿」
 
 氷山の一角の差別
 調査は万一の親心?
田辺市は部落解放運動が活発に行われており、市当局の対応も積極的で、事態を重視した田辺市は総務部長以下五人がY宅を訪問すべく上京したが、Y宅がわからず品川区に連絡した。品川区では助役以下同和対策の関係職員が積極的に対応、五月二十四日(土)田辺市の職員と品川区同和対策室副主幹が立ちあってY宅での話し合いとなったが、その時のY妻の話した内容は、
「わたしたち(祖母、母)は富山県能登半島の氷見の出身で、幼少の頃から部落差別を知っていた。学校の頃には、部落出身の生徒に対して差別待遇が行われていた。部落は二百戸位あって、近隣の交流はなかった。結婚に興信所を依頼するのは当然でしょう。先日は田辺市に行って見てきましたが、若い者がぶらぶらしていた。大阪の生野区もみてきたが、あの土地は生活が低いと感じた。調査をわたくしどもがしようとするのは、万一にでもという親心からでむしろ親切だと思います。B君のためにも・・・。長女がそういうことになったら、二女や三女の結婚にも支障ができる。万一、娘がB君と一緒になっても、わたしたちは絶対に認めません。親子の関係を絶ちます。子どもができても抱きません」などという差別的なものだった。

 差別の自覚がない
田辺市ではこの事件を結婚差別事件と断定して、品川区と共に行政による啓蒙が半年余り続いたが、解放同盟品川支部の知るところとなり、地元の運動体ぬきにやるのはおかしいと抗議して、以後、ともにこの問題を考えるようになったという。
品川区役所同和対策担当の島田職員は「わたしがこの問題で強く感じたことは、Y夫妻に自分たちが重大な差別をしているのだという事を納得させるのが、いかに大変かということでした。本人は、B君がどんなに金持ちでも学歴があっても部落だったら絶対に許しませんとのっけからいっておいて、なぜわたしが差別してるのですか、B君が家へきたとき、ケーキを出しお茶を入れて接待しました。差別なんかしていないですよといいはるんです。差別している方がそれが差別であるということを自覚していない。この間一年近く、部落の歴史や基本的人権の問題などで話をしてきましたが、差別をみぬく力をつけるという事は大変な事です。そしてひびを入れられた二人の若者の幸福は元に戻ることができませんでした。解決したのではなく、終わってしまったんです」と語る。
確認会(差別した本人と、解放同盟側と関係行政が入ってやる)でも何回も話し合いが持たれたが、高橋篤子さんは若い頬を紅潮させて「確認会で、部落出身から行政のワクをはずれた具体的な差別についての怒りをぶつける、そういう中ではじめて分かってくるんです。これからも寝た子を起こすな式の考えでなく、差別と対決しうる意識と姿勢で不当な差別を糾弾したい」と語る。




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1975年発行号より)
氷山の一角の差別 大田差別事件
解放には百年かかる

大田区役所の同和対策室であった大田区在住の浦口守一さんは、「結婚と職業の差別は、まだまだ根深いです。部落民が、あいつはチョウリンボじゃないかと部落民を差別することもしばしばです。部落の娘さんは部落外の男の人との結婚を望み、結婚した人は優越感を抱いて差別する。差別が差別を生むんです。わたくしも子供の頃から悪口を言われて育ってきました。解放同盟の仕事はやりがいがあると思い、今は生活相談員をしています。よく仲間と話し合うんですが、まだまだ解放には百年はかかる。肌で感じる差別の実態は長いと思います」と語り、柔和な顔をむけて「貴女ももし結婚相手が部落の青年だったら躊躇なく結婚できますか」と問い掛けた。

 糾弾要綱より(部落解放同盟品川支部・南部地区共闘発行)
「・・・いいようのない怒りや苦しみを味わいながらも東京には誰も知った人がなく、どこへいっていいかもわからず、どこかに差別と闘う組織がないかと思っていた時に、たまたま新聞を読んで部落解放同盟東京都連に連絡することができたのです。・・・今妥協したら差別は拡大するだろうし、周囲の人間も差別したってたいした事ではないということになるので、最後まではっきりさせていく必要があります。・・・わたしも表立ってこのように大げさになっても、闘っている人は別として知らない人には自分が部落出身だということはあえていいません。・・・身にふりかかった火の粉は払うが、知られないでいたいというのが偽らぬ気持ちです。だから部落の問題は自分がそうだという形ではなく、そういう差別はいけないんだというふうに一般の人には啓蒙しているんです。・・・今ではどんな差別にも敏感になり、しょうがい者の人が白い杖を持って歩いていたりするとハッとします。まあわたしの事は氷山の一角で、その下に数知れない差別の事実が明るみに出ないままうずまいているのです。・・・人の意識はなかなか変わるものではありませんが、痛みを感じる者たちでコツコツとやるよりほかはありません」(今村辰蔵さん 昭和四年 滋賀県河瀬村)


 < 一つ前の日記  目次  次へ>


ミンク [MAIL]

My追加