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2004年07月30日(金) 第一期(中編)



水平社の「M」は三浦大我の「M」・・・

 
京都の「中外日報」という宗教新聞の社外記者であった三浦大我(一八八四年生)は、宇陀郡政始村大字藤井(現在の菟田野町岩崎の隣大字)の出身で、誓願寺の住職でもありました。三浦大我は、一九二一年の「中外日報」にて、米騒動以来途絶えていた社会の大問題の報道を再開させました。それに対し、当時の青年たちが競って「大我の弟子」を自称しました。「柏原の三青年」といわれる阪本清一郎(一八九三年一月一日生・戸籍上は七日)、西光万吉(一八九五年四月一七日生)、駒井喜作(一八九七年五月一八日生)も例外ではありませんでした。
 三浦大我は、家族とともに大阪の天王寺区寺田町で暮らしていましたが、床の間には西光万吉の描いた襖絵ほどの大きな「半獣神」の絵が飾られていました。西光万吉はこの絵によって「古いものを叩き割って、新しいものを造りたい」という三浦大我の血の気の多さを表現したのかもしれません。暮らしぶりはとても楽とはいえず、里子に出した息子が養子先で井戸に落ちて亡くなるなど辛い記憶も背負っています。
 それでは、西光万吉の相談相手であった三浦大我の記事や論文、演説が実際どのようなものであったかについて見ていきたいと思います。

 三浦大我は一九二一年より「中外日報」に「死神と人間」、「最高相の文化」、「焼点」と論文を続々と発表しました。三浦大我の論文は「柏原の三青年」の中の一人に向けて書かれていました。その「彼」は
「生まれて来るといふことが一番悪いんです。死こそ最高相の文化です」、「本能は洗練されねばならぬ、飲食も生殖も共に合理化された時本当の文化は人間の上に将来される・・・周囲が無反省に祖先以来の多産を已めないで低劣な存在を矢鱈地上に送り出す・・・」
 と憤ったのに対し、三浦大我は
「如何程低劣な個性でも自ら選んだ魂にとつて無意義な存在は一つもない」(「最高相の文化」)、「私は点である。広さもなければ幅もない然し存在だけは確かである。私の存在が有意義であるか、又無意義であるか、それは私自身にもわからないし、又強いて知ろうともしない、ただ世界中がよってかかっても最後まで抹殺することの出来ない此一点を尊重するところに私の生命はあるのだ・・・個が個を摂取したいといふ傲慢を捨てない以上永久にこうした悲しみに悩まされるだろうという事を知った時、孤独な存在が一つの点として宇宙の一隅に措かれて居る事を不思議と怪しんだ」(「焼点」の冒頭)と諭しました。
 「彼」は三浦大我との議論を通して、傲慢な教条主義は顔をひそめ、三浦大我の説く人間主義や人間の尊厳こそ部落解放の理念だと気づいていったとみられます。
 「彼」はそれから二四年後の一九四五年九月一九日に、自らの戦争協力に対する含羞から遺書を残して自決をはかります。故郷の柏原部落に帰郷し、モルヒネを飲んで銃口をこめかみに押し当て引き金を引きますが不発でした。世話人の山田敬義さんが事前に細工しておいたのでした。その後「彼」は一途に「和栄政策」(自衛隊を廃し、代わりに和栄隊の創設を提唱する)運動に邁進するのです。「彼」が誰かはご自身でお調べくださいね。

 三浦大我はその後、「中外日報」や著作「左翼戦線」によって水平社創立までの動静を逐一報道しています。
「今回同県中央部の部落青年によって同県を中心に三重、兵庫、和歌山の諸県に亘って・・・専ら宣伝行脚によつて真実徹底力ある同志のみを選出し万事は其結団の力で遂行していこう」(一九二一年八月三一日)
「「地方青年の自覚に基づく部落解放運動は、その後各地有志の会合を重ねると共に漸く白熱的となり、従来中老等が官僚に扇動されて嬉しがっていたような気分とは全く反対に、どこまでも少数の自発的運動によって、あくまで自他の迷盲を打破すべく驀進することになった・・・多分来春の一二月頃には・・・何等かの形式に依って凄まじいのろしの噴出を見るだらう」(一九二一年一二月七日)

 三浦大我はまた、全国水平社創立の年の八月一五日に「本願寺教団と部落問題」と題した講演を燕会の宮で行い、「ただ金さへ献げれば救われるものの如く考へ」本願寺教団を妄信してきた部落門徒の意識改革を促しました。その他、県当局が水平社を懐柔するべく大和同志会との「合同」を打診してきた時に、「水平社の綱領と相隔つること遠く、水平社目下の概況は到底斯る微温的改善に甘んずる模様なきを以って幹部に交渉するの余地なし」と門前払いにしました。米田富は「三浦大我さんが頑として一定の信念を持って頑張っていただいたんで、水平社もここまで伸びることが出来た」と回想しています。
 三浦大我は敗戦直前の六月六日に郷里の生家で永眠しました。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のLは「レベラーズ」のL


 「柏原三青年」はある一九二一年八月の盆ごろ、社会問題研究部で、解放運動の名称について「何か新しい名をつけたい」とみんなで頭をひねりました。「燕会」の名でという意見も多かったのですが、阪本清一郎が「水平社」の名を提案し、西光万吉も「中世英国の有名な農民一揆の名を連想するので、私たちも異議なしであった」と回想しています。
 この「農民一揆」とは一七世紀の清教徒革命における”平等派=水平派(レベラーズ)”のことです。このことは、西光万吉たちは遠く英国の民主主義の歴史に関心を寄せていたことを窺わせます。

 ちなみに「水平社」の前進である「燕会」の名称は、一九二〇年に西光万吉の提案で「千里の海を渡る意気を込めて”つばめ会”と呼ぼうということに決め」たということです。燕会の旗には、西光万吉のデザインと見られる三羽の燕が円上を飛ぶ姿が描かれています。しかしまもなく「燕会」と対立する「親友会」が組織されたのでした。

 また、「燕会」の構成メンバーから見て、これは「黒潮会(こくちょうかい)」の変身と見られています。「黒潮会」は、失意の帰郷後、夢想の日々を送っていた西光万吉が「セレベス(赤道直下にある現在のスラウェシ島)移住」を計画して結成したものです。これは当時の知識人にしばしば見られた、自己の芸術と生産活動の一致を海外に模索する「ユートピア幻想」でもありました。時速六キロの黒潮を遡行すればやがてセレベスに近づきます。しかし、消費組合運動を進める賀川豊彦に出会い、西光万吉らは、それまでにはなかった柏原部落の生活改善という視点に目覚め、大きな転機を迎えたのでした。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のTは「特殊部落民解放論」(佐野学)のT

 
佐野学が西光万吉の呼びかけに応じて、一九二二年の夏休みと翌年の正月に柏原部落を訪問した時は、全国水平社の幹部をはじめ県内外の部落大衆、名古屋、松坂、大阪、京都など多数の同志が西光寺に集まり、柏原部落の歴史が始まって以来の大騒ぎとなりました。
 早稲田大学講師の佐野学(一八九二〜一九五三)は一九二一年七月号の月刊誌「解放」に「特殊部落民解放論」を発表して、これまでのような特殊部落民に対する融和運動だけでは部落民の改善も解放も期することは出来ないから、今後は特殊部落民みずからによって自分の部落を改善し、解放する自主的運動を組織的に起こさなければ駄目だというふうに説きました。
 佐野学が帰京する日は、西光万吉は水平社結成に至る苦労話として、官憲の尾行や親達の無理解からくる苦しみや孤立感について語りました。そこへ、阪本清一郎、駒井喜作、三浦大我、米田富が合流しました。
 佐野学は帰京後、柏原部落の思い出を「水平社訪問記」にまとめました。
「南葛城郡掖上村柏原こそ、日本の社会運動に突如として勇姿を現した水平運動の発祥地である。水平運動が起こってから僅かに一年である。しかるに其勢は燎原の火の如く全日本に拡大し、絶望と悲憤とに暗くなっていた部落の人々の心に一大光明を点じ、殆どすべての老若男女を奮い起たしめている」
 佐野学は水平運動の歴史的意義を強調し、日本に新社会を生む一大勢力として「水平運動を絶対に賛美」すると記しています。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のAは「action」のA


「米田はものになる・・・」と、西光万吉(当時二六)が初めて米田富に出会ったとき思ったのに対し、「着流しの着物に三尺帯をしめたあいつは、どこのナンパの不良じゃ」と米田富(当時二〇)は思いました。時は一九二一年一一月二〇日(水平社宣言成立の約三ヶ月前)、場所は青年団主催の高田町雄弁大会でした。

米田「外来思想は悪いから、よく気をつけるように、というお達しが回っているが、外来思想必ずしも危険にあらず、と私は思う。電気やガスという便利なものは誰が発明してくれたか。儒教も仏教もキリスト教も外来思想ではないか。日本固有のものといっては、あの杓子みたいなものを持って、高天原がなんとか・・・というだけのことだ。発明したといったって、一人に一人かかる人力車がせいぜい」

官憲「弁士注意!」

米田「僕の話に、むこうから弁士注意と言われました。私だけでなく、聴衆の皆さんもよく注意して聞いてください」

聴衆の一人「そうだ、在来思想必ずしも安全にあらず」

 その後、次の一一月二七日の紀和青年雄弁大会への参加の申し込みと打ち合わせを兼ねて、駒井喜作(当時二四)が幹事の米田富の元へ向かいました。
「大島の米田という人のうちへ行こうと思うんだけれども、どの辺でしょうか?」
「米田はわしやが、あんただれで?」
駒井喜作は「何の気なしにはっと振り返った。おそらくおそろしく背の高い男だな、ということが私の関心をひいたんだと思うのです・・・」ということで、米田富に早速水平社に参画の意志を尋ねました。米田富の返事は「喜んで参加する」ということで、後にその時の気持ちを「もうそのときには気持ちは一つに熔け合っていたと思いますね。初めて会って相談しているんではなくて、もう二人で何かを始めているんだといったような気持ちでした」と語っています。
 駒井喜作は三名の講演を米田富に依頼しました。演説時間は通常一人五分と決まっていましたが「西光さんには二〇分ほど特別に割愛してもらいたい」と注文を出しました。
「一も二もなく引き受け、水平社という未知の星をもったわたしには、もう怖いものなどなかった。私はこの運動に私のこの身この生涯をかけることを繰り返し心の中で誓っていた。駒井の話が、また私の決心に力強い拍車をかけてくれた」と、当時の決意を米田富は回想しています。
 紀和大会の当日は、米田富は「プログラムの真ん中へ太い枠をとって西光万吉の名を入れました」。三三名の演説を四、五百名の聴衆が聞きに来ていました。司会役は米田富でした。演説者のうち二名が演題の中に「社会主義云々」があったために「言論不穏」と臨席していた県警課長に中止を命じられました。西光万吉は「金殻を脱ぐ」、駒井喜作は「二つの経済組織」という演題で語りました。「金殻・・・」の論旨は「黄金に象徴される資本主義的ブルジョア制度の殻を破り、無産者として創造的人生を歩め」というものでした。
 この大会は、「スピードの遅い速いはありましょうけど」(米田談)青年の成長ぶりを物語るものとなりましたが、官憲はこれを期に青年たちの備考も始めていきました。

 阪本清一郎が「水平社創立趣意書」の印刷を奈良市の松井庄五郎に依頼したところ、大和同志会会長の彼は「こんなものこの通り印刷したら一辺に発禁じゃ」と真っ赤に訂正して原稿を返しました。この時、西光万吉たちは融和運動と水平運動の趣旨の違いを思い知らされました。
 そのとき、京都の千本部落の青年代表南梅吉(当時四四)という麦藁帽子をかぶった小柄な男が入ってきて、「このごろ非常に困っているんです。社会主義者の人がちょいちょい入ってくるんで」と言ってきました。阪本清一郎は彼の名刺を見て、京都の同志の紹介を彼に頼みました。
 その後、三浦大我の仲裁でようやく「水平社創立趣意書」の印刷を京都にある同朋舎で行ってもらえることになりました。

 南梅吉を介して京都の組織化が進む一方で、米田富は砂を噛むようなオルグ活動を展開していました。「私は和歌山県沿岸から淡路の方を回り、いろんな人に水平社のことを説明して、どうだろうという話をしましたが、それは結構だ、おおいにやりましょうということを元気よく答えた人はきわめて少数でした」。また、米田富の実家には「ちょっと二階を見せてもらう」と言って警官がサーベルの音を立てながら入ってきて、彼を家族や幼友達の目に不審人物に仕立て上げました。米田富の孤独感はつのるばかりでした。
 一方、西光万吉も官憲の尾行つきとなっていたことで、檀家から父親が責められ、西光寺を出て京都へ転居することになりました。七〇歳を過ぎていた西光万吉の父の道隆は「やれるだけやれ。しかし村を離れて、京か大阪へ行け。そして運動を続けよ。金は少しずつでもできるだけ送ってやる」と言って「お布施の中から貯めた五〇銭銀貨を紙に包んで」与えました。

京都でガス会社の修理工となった西光万吉と、紀州の小さな日刊新聞に籍を置いていた米田富と、奈良から河内方面へ水平社の宣伝活動を行っていた駒井喜作は、同情融和の欺瞞を説くべく「大阪時事新報」(現在の産経新聞の前身)の社会部長、難波英夫(当時三三)を訪ねていきました。難波英夫は、部落問題をタブー視していては「仕事にならない」と、他紙に先駆け積極的に載せていたところ、「老荘派」の寺田蘇人が訪ねてきて「大日本平等会」側の発起人を頼まれていたのでした。
 寺田蘇人は西光万吉の説く解放運動の原則「部落以外の人々に依つてなされたる過去の運動が常に不徹底であつた事だから、部落の解放は部落民自身の力に依つて真剣に展開されねばならぬ」を過激と捉え、それに対し駒井喜作は「自発的精神と至純なる情操と灼熱せる信念との不備による抜け殻と倦怠とをもたらしつつある・・・不合理なる空想的運動」と「中外日報」紙上で批判を繰り返していました。
 西光万吉は難波英夫に対し、「それが問題なんです。・・・現に平等会でも、部落の教養ある名士をすぐって組織しようとしていられる。・・・我々がなぜ教養を身につけることのできない状態におかれているのか、ということをまず考えてほしい。・・・(一流の偉い人が)もっている身分的優越感そのものが、差別の元凶なんです。・・・私は人間を本当に尊敬する立場で見ないで、やれ可哀想だ、気の毒だというので、何か恩着せがましいあの態度、これが心外なのです。これこそ差別ではありませんか」と話しました。それからせっかく水平社創立を進めてきたのに、直前に平等会の大会を開かれると、意気を削がれ妨害になると、本音での話し合いもしました。難波英夫は自分の不勉強を恥じ、「平等会を水平社の宣伝の場にするシナリオ」に協力することを約束しました。

 一九二二年二月二一日の午前一〇時、中ノ島中央公会堂で「大日本同胞差別撤廃大会」(平等会)が開催されました。舞台には知事や市長、東西本願寺の御連枝等の「名士」がずらりと並びました。
寺田「開会の辞を大阪時事新報の難波英夫氏にやってもらいます」
難波「この問題を私たち外部の者がかれこれ言うのはまちがいなんだ、・・・どうかどなたでもいいですから皆さんの中から発言していただきたい」
西光(菜葉服で、右手を挙げ左足を引き長髪を振り上げながら)「諸君。大谷氏は生き仏として拝まれるが、私は屈辱の青痰まで吐きかけられ人間であることさえ否定されているのです。私どもの願いは大谷さんのようにすべての人間が平等に拝み拝まれ尊敬しあうよき社会をつくりたいのです」
 次に巨体の泉野利喜蔵が蛮声を張り上げ下駄でどんと舞台の床を踏み付けると、床板が割れて来賓一同はおびえました。続いて南梅吉が解放運動の根本を論じる中、「京都へ!京都へ!」の五色の宣伝ビラが二階から撒かれました。「ひらひらと花の如く散り・・・あっちからもこっちからも手を伸ばして取りっ子するのを上から見ながら撒いた」といいます。「成功した」と米田富は直感しました。
 終了後、命脈の尽きた平等会の寺田蘇人から、難波英夫は「エタの小僧になにができる?」と社会事業家の腹の底を見せつけられる内容の手紙を受け取りました。
「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のEは「energy」のE


一九二二年三月三日の朝は快晴で、暁闇のうちから京都駅に着いた岡山の青年たち、消防団旗を持ってハッピを着てラッパを吹きながら駅から降りてきた奈良の一団、関東からの一団などが次々合流し、行く道にはずっと行列が岡崎公会堂まで続いていました。参加総数は二五〇〇〜三〇〇〇人程でした。
 午後一時、開会のベルが鳴り、執行委員長の南梅吉が拍手に迎えられて登壇しました。続いて式次第に従い阪本清一郎が「粒々辛苦の経過」を報告し、桜田規居矩三が綱領の三項目を朗読しました。
 桜田が綱領を読み終えても歓声と拍手はなかなか鳴り止まず、次いで大柄な駒井喜作が創立宣言文を持って登壇し、朗々と読み上げようとしましたが、「全国に散在する吾が特殊部落民よ」で言葉が詰まり、やっとしてから「団結せよ」と続け、「長い間虐められてきた兄弟よ」でまた言葉が切れ、さらに「何等の有難い効果を齎さなかった」に絶句し、「吾らの祖先は自由平等の渇仰者であり、実行者であった」で声涙ともに下り、「吾々がエタである事を誇りうる時が来たのだ」は悲壮でした。それからは駒井喜作はゆっくりと読み続け最後に、「水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。大正一一年三月三日、全国水平社」と結ぶと、三千の観衆はみな声をのみ、駒井喜作も降壇するのを忘れて壇上に立ったままでした。そして、観衆は手を握り合い、肩を抱きあって喜びの涙を流し、しばらくして堂をゆるがすような大拍手が起こりました。
 そこへ米田富が三項目の決議文を持って登壇し、一項一項読み上げるたび、割れるような拍手とそうだそうだの声援が聞かれました。
 最後に大柄な泉野利喜蔵が登壇し、祝詞・祝電・激励文を読み上げ、大会は終了しました。
一斉に「エタ万歳、水平社万歳」の声が聞かれ、引き続き各地の代表者演説に移りました。
 この次に登壇したのが少年代表の山田孝野次郎でした。


 大会の模様は、映画や演劇でおなじみのシーンでもありますね。啓発ビデオの『三月三日の風』は「至高の人 西光万吉」が原作だそうです。観られた方はぜひ感想をお聞かせくださいね。「水平社の薔薇」Fに続きます。


from「水平社の薔薇」


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