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2004年07月29日(木) 第一期(前編)



第一期(前編)


水平社のJは「殉教者」のJ・・・

 種明かしすると、「水平社の薔薇」という言葉は、一九二〇年に大福村の三人の青年が創刊した「警鐘」に、西光万吉(当時二十六歳)が翌年西光寺一というペンネームで寄稿した「鐘によせて」という叙事詩からいただきました。一部を抜粋すると

 
 生命の鐘つき男よ
 なんとおまへの御苦労よ
 おまへはたっしゃで早起きで
 たっしゃで早起きでお人よし
 そしておまへには
 いろがあるそな
 その恋やつれ
 なんとおまへの御苦労よ
 (中略)
 わしはよいものをことづかった
 おまへのいろからたのまれて
 薔薇でかざった十字架をことづかった
 (中略)
 荊の冠をとるひまもなく
 その十字架を抱擁し
 その薔薇に接吻するであらう
 おまへは
 (中略)
 黎明に鐘がなる
 追放されたるイブとアダムは
 悲嘆と当惑の頭をあげる
 そこから親鸞が同行し
 ルシファの蛇が案内する 
 地獄のかなた、人間の浄土よ


 
このミルトンの「失楽園」(ドレ画)を連想させる詩の中の「十字架」は「生命の鐘つき男」、つまり機関紙「警鐘」に集う青年を殉教者に見立てたもので、「薔薇」は西光万吉が水平社を連想した花であると思われます。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)



 さて、なかなか本題の「水平社宣言」の内容が出てきませんね。実はこれには理由があるのです。

 『至高の人西光万吉』(人文書院)の著者宮橋國臣さんは、「宣言には幾層にもわたり、歴史性、思想性、精神性、社会性等が凝縮されている」とおっしゃっています。例えば、西光万吉は自らを”大宇宙の巡礼”に準えましたが、これは「そうした様々なジャンルを読み込まないと、起草した西光の思想や精神形成の理解には到らない」のです。
 よって、今回は「水平社宣言成立の歴史的、思想的、文芸的な背景」、さらには本書にあるような「発祥地の歴史認識」のキーワードを、ワタシなりにアルファベット別に抽出してみました。よろしければもうしばらくおつきあいくださいね。


A action(行動)
B backbone(背景)平等会 部落改善事業費
C cross(十字架)
D 「どん底」 弾圧 大和同志会 同愛会
E エネルギー エスぺランチスト 演説会 

F fighter(少年闘士)普通選挙法 不戦の誓い 舟木事件
G ガンジー
H 「誇り」本願寺 平安中学
I アイデンティティー(部落民意識) 一村一校(学校騒動)
J 殉教者 自殺願望 
K 荊冠旗 矯風会 期限二千六百年奉祝式典 国粋会 教条主義 関東大震災 国民勤労報国協力令 小作争議 賀川豊彦 共産党宣言 
L レベラーズ
M 三浦大我 三井三池炭鉱
N 奈良県南葛城郡掖上村柏原北方(現御所市柏原) 膠製造 二・二六事件 日本社会主義同盟 人間主義
O 大江天也(大江卓)
P police(官憲)
Q 糾弾
R 労働農民党 蘭陵王 烙印
S 至高天 「神曲」 三・一五事件 親友会 世界連邦建設同盟 西光寺 青年共和団 社会問題研究部 

T 「特殊部落民解放論」(佐野学) 太平洋戦争 燕会 中外日報 治安維持法 天皇制 大逆事件 太平洋画会研究所 大正小学校差別事件
U 畝傍中学
V vision
W wife 和栄隊 
X ?(水平社宣言の新しいパラダイムを提起:「第�群鷙餾歐畔�制研究会報告書」宮橋國臣さん/大阪の部落解放・人権研究所発行)
Y 融和団体 よき日のために 大和同志会
Z 全国に散在する・・・(宣言)




水平社のSは「至高天」のS・・・


西光万吉は一九七〇年三月二十日に胃癌で七五歳の生涯を閉じました。彼の訃報を翌日の朝刊各紙は「水平社創立者」、「水平社宣言起草者」として報じました。彼の告別式は西光寺で営まれ、荊冠旗が本堂、門前に立てかけられました。葬儀委員長は阪本清一郎で、「水平社宣言」朗読の後、「宣言が初めて読み上げられた時の感激を忘れず、遺志を継ぐ」との弔辞が友人・関係者から相次ぎました。
 一九七〇年は大阪で万国博覧会が開催された年ですが、その前年一九六九年六月には同和対策事業特別措置法が制定されています。これは一九六五年に出された「同和対策審議会答申」に則って制定されたものです。その翌年の答申の完全実施を求める国民大行進で、東京でのデモの先頭に立った米田富は、水平社結成(一九二二)から四四年を経て、部落民だけでなく国民各階層から長蛇の列が出来たことに「非常に感激した」と言っています。それから、この年の一一月二二日に部落解放の父松本治一郎が八九歳で亡くなっています。
 一九八七年の暮れのNHKの正月番組の録画撮りで、柳田聖山(当時京都大学人文科学研究所所長)が英文学者の寿岳文章(一九〇〇〜九二)に「もし、至高天に、日本人で坐れる人物があるとしたら、それは誰でしょうか」と訊ねたところ「それは水平社宣言の起草者、西光万吉です」と答えたそうです。ダンテ(一二六五〜一三二一)はイタリアの詩人で、そのキリスト教文学の傑作「神曲」には、彼が政治的対立に関係して追放され、故郷を偲びつつ流浪の半生を送った悲しみや希望、憎悪や信念が描かれています。
 その「神曲」の如く生涯を駆けぬけたといわれる西光万吉について、また運動の存命者への聞き取りを元にした水平運動史、地域史について、これから「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)をもとに、より豊かに関心を広げていきたいと思っています。


ダンテ「神曲」天国編(ギュスターヴ・ドレ画)


 


水平社のBは「backbone(背景)」のB・・・

奈良県南葛城郡掖上村柏原北方は、「至高の人 西光万吉」の著者宮橋國臣氏の故郷です。ここは西光万吉(本名清原一隆)、阪本清一郎、駒井喜作らを育んだ水平社発祥の地です。この地に、今から約二六〇年前の一七四八年、西光寺は建立されました。
 
 一八七二年(「解放令」発布の翌年)「学制」が布かれ、翌七三年に西光寺の本堂を代用した小学校が開設されましたが、地区(戸籍簿上は岩崎村)の子どもがここで教わったのは、最初のうちちょっとの間だけでした。岩崎村の大人たちは、別村別学問題解消のため周辺の村の合併を協議し、一八八九年に掖上村が誕生しました。
 一八九〇年に「新学校令」が布かれ、掖上村初代村長の西村元十郎が、部落児童と部落外児童を「人種が違う」と言って、別学にする学校分離政策を立案しました。これに対し、柏原部落の大人たち(中谷長八、阪本清三郎、米田長平、駒井勝次郎など)が一一ヵ月間同盟休校を起こし、一八九九年に完全に「一村一校」となりました。この闘争の過程に、阪本清一郎(一八九三年生)、西光万吉(一八九五年生)、駒井喜作(一八九七年生)が誕生し成長しました。

 小学校三年や四年で中途退学した子どもたちの年季奉公先に膠(にかわ)工場がありました。膠の製造は腐敗を避けるための厳冬期の仕事でした。職人衆の間では作者不詳の仕事歌、
「かきまえ貧乏すりゃ、追い回しは乞食、簾(す)拭きかわいや野たれ死に」
 が口ずさまれました。「かきまえ」職はかきまえ包丁を用いて舟箱の膠を薄く切り取り、縄で編んだ竹の簾に並べる作業、「追い回し」職は「かきまえ」職の下働きで簾を担ぎ出す作業、「簾拭き」職は「追い回し」の下働きで、簾の上に凝らした膠を載せて並べる作業(主に少年労働)のことでした。この歌は職人の間での食事の格差を表していました。新米の「簾拭き」は「野たれ死に」寸前の食事であったのです。区内では阪本清一郎の家以外に四者の膠製造業者がおり、日雇い労働者のほとんどがここで働いていました。
 
 西光寺で西光万吉の父に漢籍の手ほどきを受け、部落外の知人川合弥市郎の名義を借用して医師となった巽数馬(一八六七年生)も、「柏原の三青年」に精神的影響を与えました。彼は自由民権運動の洗礼を受け、何度も獄中生活を送りましたが、出獄後は温厚篤実な医師として部落内外から信頼を得ていました。

一八九五年四月一七日に生まれた西光万吉は、小学校を一九〇五年に卒業後、御所高等小学校へ進学しますが、この頃より差別を強く意識するようになります。その後、奈良県立畝傍中学校(現・県立畝傍高校)に入学しますが、「遠足で飛鳥へ行くとき、飛騨を通ると”部落”だと言う。差別を感じて中学校は一年半(一九一〇年六月二三日)でやめました」ということでした。中学校時代の彼は文学青年で「シェイクスピアから慶応、早稲田文学、近松、西鶴などいろんなものを」読んだといいます。彼は「差別に悩み、どこでもいいから遠いところへ行きたい。自分の部落から離れたい」と思っていたといいます。
 一九一一年に僧侶を志し私立平安中学(現・平安高校)の二年に転入しますが、「私は体が悪いものだから、和服で、一人だけ見ていて体操もしない。体操の先生が草引きでもしとけと言う。この先生は奈良県から来ていて、私が坐っていると、”おまえどこの学校へ行っていたか”と聞く。”畝傍です”と答えると”洞(洞部落)で一服するのか”と嫌がらせを言う。口惜しくてアイクチ(短刀)買うてきて突き刺したろかと思ったことがある」そうです。彼は登校拒否し、絵の修行に向かいました。在学中の一九一二年に母を亡くし、彼は同年退学届けを提出して受理され、僧侶への道を断念しました。
 一九一三年、西光万吉は東京へ上京し、太平洋画会研究所に入学しますが、上京第一夜に、彼が鏡を見ながら自画像を描いていた時に、下宿の階下から以下のような話し声が聞こえてきました。

下宿人「おかみさん、きょうはどこかから少年がはいってきたね。あれはどこから来たのかね」
おかみ「あれは奈良県です」
下宿人「奈良県。奈良県にはね、三つの名物あるのを知ってますか」
おかみ「三つの名物って、知りませんよ」
下宿人「あんたは知らんのかね。鹿と粥と新平民ですよ。あの少年も新平民じゃないのかね」
おかみ「そんなこと知りませんよ」

 その下宿人は、その後の下宿生活で西光万吉に奈良県での出生地を執拗に訊いてきました。彼が「御所付近や」と答えると「わしも御所付近や。それでどの辺や」とさらに突っ込んで訊かれました。どこへ行ってもあかん・・・。西光万吉は生前この話を公表しませんでしたが、余りにも惨め過ぎて誰にも話せなかったからだといいます。
 上京した年の秋、一九一三年の一〇月二九日に自由劇場第七回公演帝国劇場で、西光万吉はゴーリキーの「どん底」の芝居を観ました。彼はサーチンの台詞「人間は尊敬しなくっちゃならねえよ!憐れむべきものじゃねえ・・・」に感動しました。
「この間、絵画の練習はしだいに消極的となり・・・親鸞の信仰を伝えた”歎異鈔”やマルクスの”共産党宣言”にいたる種々なる書物を濫読した」そうです。彼は画家志望も放棄し、一九一八年の秋、帰郷しました。
 
 一九七〇年三月二一日の朝、全国水平社創立者の西光万吉の訃報記事を、著者は東京の大学の自治寮の一室で読まれました。卒業を間近に控えておられた時でもあり、それは著者が水平社への親近感と故郷への誇りに目覚められた瞬間でもありました。
 帰省後、著者の父が仏壇の引き出しの奥から、西光万吉の絵を出して著者に見せられました。これは著者の祖父が一九二九年の正月に服役中の西光万吉に面会に行った際、貰われたものでした。絵には二人の資産家らしき人物が、労働者を指さす場面が劇画風に描かれていました。金持ちは労働者が働いているから気楽になれる、それなのに、金持ちは労働者を侮辱していると、著者の叔母が絵の意味を、西光万吉の気持ちを代弁するように語られました。
 西光万吉が、文字を知らない筆者の祖父に、悔しさを絵にして、水平社宣言を絵にして、手渡したことに著者は気づかれました。

 西光万吉が生涯忘れなかった小説はエドモンド・ロスタンの「シャンテ・グレル」で、それは、彼が通学途中の川西村の峠でこの本を読んで登校しなかったのを、学校から呼び出しを受けた父が帰宅してから彼を叱責しなかったという理由があるからです。故郷の定義は、こういうものかもしれないとワタシは思います。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)



本年もはっぴーばーすでー・夏の星座さん♪"from「水平社の薔薇」


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