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2004年07月31日(土) 第一期(後編)



第一期(後編)

水平社のFは「Fighter(少年闘士)」のF・・・
 

 全国水平社創立大会の翌年、一九二三年の九月一日午前一一時五八分に、関東大震災が起こりました。その時、栃木県水平社大会に弁士として参加していた少年は、東京に滞在中でした。西光万吉と阪本清一郎が少年の救出に向かい、満員機関車の最後尾にしがみつくようにして帰郷しました。
 少年は、奈良県柏原出身の山田孝野次郎(といい、阪本清一郎らが作った「社会問題研究部」の最年少メンバーでした。彼は一九〇六年に七人兄弟の三男として下駄の修繕業を営む家に生まれました。ちなみに一九〇六年は島崎藤村の「破戒」が出版された年です。
 山田孝野次郎は、一九二二年三月三日の全国水平社創立大会でも少年代表として、「生徒の様子を心配」した校長の職務命令でやってきた担任の安川藤作が密かに参加する中、以下のように来会者に訴えました。
「奈良県の山田です。私は学校で同級生や教師から差別され、身も心も冷え切るような思いで過ごしてきました。校門をくぐったら最後、勉強どころか涙で一日が終わる日が何回もありました。教壇に立った先生のひとみは何という冷たいものでしょう。しかし、それで、わが身が悲しいかというと決して悲しくはありません。私には世間からさげすまれなければならないいわれが、なにひとつないからです。尊い人というのは、生まれながらにして、何か他の人と違う印がついているのでしょうか。まさかそんなことはありません。尊い人もいやしい人も存在しないのです。私の体の中には他のすべての人達と同じように赤くて熱い血液が流れているのです」
 堂内の各所からも壇上の委員からも嗚咽の声が聞こえた時、彼は

「今、私共は泣いているときではありません。大人も子供もいっせいに立って、この嘆きの因を打ち破ってください。光り輝く新しい世の中にして下さい」
 
と、高い声で訴えました。
 創立大会で大人顔負けの活躍をした山田孝野次郎は、学校ではどのような少年だったのでしょうか。当時、富田校長による朝礼が毎日あり、柏原部落が「トラホーム(伝染性慢性結膜炎)が多い」、「汚い」、旗日に日の丸を「立てない」と言って中傷を繰り返していましたが、山田孝野次郎は直談判してこれをやめさせました。また、卒業式で総代として答辞を読むとき「謝恩の辞を投げ捨てて、火のような憤りを舌端に燃やした。卒業式は大混乱に陥り、校長始め一同は色を失った」とのことです。
 山田孝野次郎はその後、松本治一郎と行動を共にして九州に滞在しており、一九二七年の盆に最後の帰郷を果たすと、一九三〇年脳腫瘍によって失明し、翌年三月九日に二五歳の若さで他界しました。葬儀は全国水平社葬として西光寺で営まれ、参列者は全国から二千余名にのぼりました。
 なお、山田孝野次郎顕彰碑が全国水平社委員長の松本治一郎によって小学校前に建立されましたが、建碑当日は故郷を離れて久しかった彼に区内で協力者はなく、身内だけという寂しいものでした。


1924年3月5日全水青年同盟西浜支部の演説会(壇上は、山田孝野次郎)


 全国水平社創立大会と同年の四月の奈良県水平社創立大会演説では、小学生代表の井上千代子(一九〇六生まれ)が登壇しています。
「これも要するに我々に意気地なき結果なること、そしてこの苦痛と迫害より逃れんためには、今日から我々が一致団結して暖かくそしてよりよき世の中を造らん」
 と、彼女は大人顔負けの主張をしました。続いて山田孝野次郎が「宣言」を朗読し、婦人代表の中西千代子は子連れで「水平運動によりて未だ自己に目ざめざる人は、最も愚なり」と部落大衆の自覚を促す主張をしました。少年少女水平社、婦人水平社は同年三月に大阪で設立されています。
 参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のKは「荊冠旗」のK


 一九二二年の全国水平社創立大会は成功裏に終わりましたが、そのあと、西光万吉らを失望させる事態が待っていました。
 官憲は治安維持法をちらつかせ、「(弁士)中止という声が一声かかったら、それからは一言言っても、違反になるわけです・・・私は奈良県十八の警察のうちで一晩も留められなかった警察は二つしかありません・・・」と米田富は当時の様子を語っています。
 同年五月一〇日の奈良県(柏原)水平社の結成から間もない五月一四日には、南葛城郡の大正尋常高等小学校で、「今日はエッタの掃除当番か」と部落外の一児童が発言をしたのを契機に、大正村の小林部落と部落外の学校関係者、保護者との間で激しい争論が置き、小林部落の木村京太郎(当時二〇歳)ら七名が御所署に出頭して事件の真相について述べましたが、七〇日余りも五條監獄での獄中生活を強いられることになりました。
 同年六月四日には、大和同志会が二〇〇名の参加で協議会を開いて水平社に対抗することを協定し、それを受けて柏原部落の親友会も出席者一〇〇名で西光寺で総会を開き、「一、水平社は過激であるゆえ加盟しないこと 二、穏健な手段で部落改善を図ること」を協定しました。

 そんな中、全国水平社は一九二三年三月二〜三日に、前年と同じ岡崎公会堂で、第二回大会を迎えました。東西両本願寺に募財拒絶を通告する示威運動を展開していた全国水平社は、三日の午前五時の早朝、雨の降る中、五千余名が、三府二七県の先頭には、五尺の先端を斜めに切った青竹の先には荊冠旗、数十名の消防服姿のラッパ隊による行進曲という隊列で、まず東本願寺に向かいました。
 隊列の先頭の栗須七郎(当時四一歳)は和歌山県本宮の苔部落出身で、いつも長髪で腰に縄を巻いていたので「水平の行者」と呼ばれていました。隊列が須弥檀を背景に整列すると、彼は賽銭箱の上に立ち、両本願寺が「我等の正に建設せんとする新社会の完成に障害を與ふものなるを以て、其存在を否定する為の募財拒絶を断行する」と宣言しました。
 再び、示威運動は隊列を組むと今度は西本願寺へ向かいました。今度は西光万吉が賽銭箱の上に立ち、「我々は此誤った宗教、誤った道徳を改むる躾けとして、先づ此偶像を破壊せざるべからず、茲に於て初めて本当の親鸞は実現し得るだらう」と絶叫しました。
 その後、午前一一時に隊列は岡崎公会堂に到着しました。正面玄関には、黒地に赤荊の冠が描かれた荊冠旗が張り出されていました。
 
 さて、この荊冠旗を考案した西光万吉は、旗の「黒地」に「我々の過去と現在の陰暗な生活」を、「赤荊の冠」に「罪人の印として」キリストの頭に載せられたものとして、受難と殉教を象徴させました。若い米田富は、西光万吉が荊冠旗と旗竿に託した思いを聞き、この荊冠旗に「部落民の誇り」「殉教者としての誇り」を見ました。

米田「われわれは殉教者という誇りと、そして信念で進んでいかなければならないというのが、キリストの刑死に影響を受けた西光さんの考え方で、だれも反対する者がない。私のごときは、荊冠旗についての説明を、西光さんから聞いて、肩身が広くなって”殉教者だ、殉教者だ”ということで、力づけられました」

西光「黒地に赤荊の冠であまり気味のよいものでないばかりか、その旗竿の先を鋭く斜めに切った青竹にする・・・。(中略)しかも旗竿はかならず生々しい青竹の竹槍でなければならぬ。この当時の私たちの陰惨な受難殉教の気持ちをそのまま表現している。この旗を見ずして水平運動は語れない。まさしく小さい星一つさえないこの旗は、絶望的にさえ見えるにもかかわらず、血みどろな人間が、まだ殺されずに生きている、しかも立ち上がろうとする。そんな気持ちが、私にこの旗と竿を考案させた」


米田「われわれ部落民は獣の皮をはぎ、獣の心臓をさき、牛殺し、馬殺し、そういうことで差別をうけたけれども、それをやる者がなかったら、着るものの、食べるものも、履くものも出来ませんのや。モーニングコート着て、にわとり同様、足元だけ裸足やったら、これ、うつりまへんで!」

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)



水平社のHは「誇り」のH


 一九二二年三月三日の夜の協議会で、元備作平民会の岡崎熊吉から、宣言文の「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」に対するクレームが付きました。会場には、各地代表と有志一八〇人ほどが集まっていました。岡崎の意見に対し、一心に説得を試みたのは米田富でした。

米田「我々が自らエタ・特殊部落民を言う時は、人間としての自覚と人間として持つべき当然の権利の上に立った上で使うのですから、そこには自らを卑下する何らの劣等感もなければ卑屈感も伴わないのです。我々はみんながこの自覚に立ってほしい、立つべきです。みながエタであることを誇れる人間になってほしい。我々の運動の根本は、この自覚・尊い人間であることを自覚することにあるのだと主張しようとしているのです。ところが、一般の人間が”エタ”とか”特殊”とか言う場合は明らかに差別を表示としてしか使わないのです。これは不当極まる優越感に基づくものと考えねばなりません。これは許してはならないのです」

 議事進行役の駒井喜作が「不断の努力」で賤称を尊称にしようと討議を締めくくりました。

参考文献:「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のIは「identity(部落民意識)」のI


(水平社)宣言の中心思想は「人間を尊敬する事によつて自ら解放せん」とする人間主義であり、人間の尊厳思想である。冒頭の一句の「全国に散在する吾が特殊部落民よ、団結せよ」が大文字で記されているのは、西光がこの一句にアイデンティティの叫びを込めたからで、その思いは絶大であったといえる。米田のこの一句について、「解放運動の生命」を表現している、と語り、木村京太郎も「(特殊部落という)公然自称に無限の意義がある」と絶賛する。この文言は、マルクスが労働党の国際的団結を呼びかけた一八四八年の「共産党宣言」から西光が示しゅんを受けたものだが、「共産党宣言」以上の重みがある。
 人間の尊厳を踏みにじるのはこれらの「烙印」だけではない。西光は、「いたわる」という同情融和思想も人間の尊厳を奪う、と説く。見せ掛けの同情も人間を冒涜するのである。「いたわる」は漢字で「労」ると書くが、これでは西光の意図が伝わらない。そこで彼は「労」の代わりに「勦」という難解な漢字を用いた。(「至高の人 西光万吉」より引用させていただきました)


水平社のQは「糾弾」のQ

 
 水平社創立大会の翌日に東西本願寺を訪ね姿勢を糾した帰りに、米田富が市電停留所へ行くと、そこに数名の地元の人たちが立ち話をしていました。彼らが、昨日の岡崎公会堂での大会のことについて「大勢の華族さんのお集まりやったそうな」と言う話し声が米田富の耳に聞こえてきました。「そんな大会あったんやろか?」と米田富は一瞬いぶかりましたが直ぐ「我々を皮肉って華族さんと言っとる」とピーンと来ました。

米田「ちょっと聞きまっけどな、きのう、ほんまに華族さんの大会おましたか?」

地元の人「へえ、そうどすがな、えらい大会やったそうどっせ」

米田「きのう、大会を開いたのはわしらや。特殊部落民や。わしらを華族さんとよべば、差別にならんとでも思とるんか。これこそあくどい差別やないか。昨日の大会は貴様らのような差別者を糾弾するために開いた会や」

 昨日の大会で徹底糾弾の決議文(その一、吾々に対し穢多及ひ特殊部落民等の言行によつて侮辱の意志を表示したる時は徹底糾弾を為す・・・)を朗読した本人、米田富が最初の糾弾に立ちあがったのでした。
「特殊部落民」或いは「エタ」という差別語は、人間の尊厳を踏みにじり自由と平等を奪ってきた言葉で、人間の尊厳を奪還するためにはそのように「徹底的糾弾」が必要だった、生涯自分は「徹底的糾弾」に生きたと米田富は語っています。

 「特殊部落民」或いは「エタ」という差別語は、水平社宣言の文言の中では「犠牲者がその烙印を投げ返す」の「烙印」に当たますが、宣言(案)検討の時には、この文言は削除しようという動きもあったようです。では、当時の水平社創立大会の創立宣言(案)の検討の様子は、どんなふうだったのでしょうか?
 それは若い米田富のいる部屋に西光万吉と駒井喜作と東京から平野小剣が集まって、始められました。

西光「”投げ返す時が来たのだ”というのは復讐を意味するようなことになるので、この部分は抜きましょうか」
米田(宣言文全体がやわやわしいと思っており、もっと激情で、戦闘の意思表示をせねばと思うくらいのところに、まだその文章を取ると西光万吉が言うので)「このくらいは、置きましょうや」
駒井・平野「このくらいのことは、置きましょうや」

 米田富は宣言の中でこの報復調の文言「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ」に引きつけられていましたから、「この文言の実行にのみ生きた」と後年、生涯を振り返って語っています。
米田富
 
 ちなみに西光万吉が「烙印」を指す「エタ」や「ケモノ」の語を「穢多」や「獣」の漢字表記にしなかったのは、彼が漢字を使うと差別感が倍加すると慎重であったためと言われています。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のCは「cross(十字架)」のC


 水平運動を九州にも広めようと、一九二三年五月一日の全九州水平社の結成式に阪本清一郎や米田富も参加することになりましたが、委員長の松本治一郎は四月二六日から獄中にあり出獄の見通しが立たなかったため、一旦帰省することになりました。
 その前夜、福岡市松園部落での送別の演説会で、最後に演壇に上がった米田富が、官憲から「弁士中止」を受けました。演説内容から中止は不当だと思って演説を三〇分ほど続行した米田富は、そのあと福岡署に連行されました。
 翌朝、米田富は約一キロ先の支所まで徒歩で連行されることになりましたが、彼の頭には網笠が被せられ、腕には鉄の輪の手錠がかけられ、腰には麻縄の紐が巻かれ、紐の先を警官が握っていました。
 福岡署の前では多数の部落の人たちが集まっていて、米田富が歩き出すのについて彼らも歩き始めました。途中、彼らは「米田さん、いっぱい飲みますか」と声をかけ、手の使えない米田富が口をあけると、彼らはサイダーを注ぎました。「そのサイダーのうまかったこと。兄弟たちの優しさと励ましの声・・・」この時の感動を米田富は生涯忘れませんでした。
 米田富の姿はゴルゴダの丘に十字架を背負って登るキリストとだぶりました。

 米田富は福岡刑務所の独房に約一ヵ月間拘留されました。松本治一郎は六月二五日に六二日ぶりに釈放され、そこで米田富と初めて出会いました。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のRは「労働農民党」のR


 西光万吉が農民運動に飛び込んだのは「封建的な農民の生活と観念が変わらぬかぎり、我らに対する賎視差別も消えない」と考えたからでした。
 当時の農民運動は主に小作争議であり、日本農民組合は一九二二年四月九日に創立大会を開きました。西光万吉がたまたま、大会の理事である神戸の賀川豊彦宅に訪ねた時、打ち合わせに来ていた杉山元治朗と知り合ったことがきっかけで、農民運動家としての西光万吉がスタートしました。
 潔癖な西光万吉は「自分の思想を正しいと思い込み、それで相手を説得してもどうにもならない・・・お百姓の歴史を善も悪も、そっくり自分が背負って行くしかない」と清濁併せ呑むことを農民から学びました。
 真摯な西光万吉は共産党員となり、一九二五年の普通選挙法の施行に伴い「労働農民党」公認で県会と衆議院議員選挙に出馬しますが、惜敗します。
 一九二七年九月の県議会選挙に労農党公認で立候補した西光万吉は、次点で落選したけれども「最高(西光)が落選しました」と気落ちした様子もなく全国水平社本部へ入ってきました。同年の一二月二二日に彼の父が七八歳で亡くなりました。
 一九二八年二月の衆議院議員選挙に、西光万吉は再び奈良県から立候補しました。世論は「新聞紙をポスターに、金は釣鐘と半鐘だけ」(大阪朝日と彼の清廉潔白な人柄と略歴を紹介しました。彼は「貴重な一票を私、西光万吉に入れてくれ」とは絶対に言わなかったので、米田富は「自分ひとりのためにでる、という野心や欲望を持たないわけです。はたはみな当選させてやりたいと思うので、演説のしまいにたった一つ、皆さんの貴重な一票を私にお願いするということを一言だけ頼んでくれと、西光さんに歳々言うわけです」と語りました。しかし、時には「皆さんの手に握り締められた槍の穂先として、私を田中反動政府の心臓に突き刺してください」と鬼人さながらの形相で呼号したといいます。
 官憲からは、農村での演説で「現内閣の肥料政策は」と言っただけで中止を命ぜられたため、労働農民党・日本労農党・社会民衆党の三党共同で政府の選挙干渉に抗議を行いました。
 この選挙での西光万吉の敗因として米田富は、まず選挙資金の大差を上げました。当時の金で二〇万円の候補と一六〇〇円の西光万吉との違いです。仮に当選しても労農党であれば国会へ行く代わりに刑務所に連れて行かれたことも挙げていました。それから、手のひらに「清原一隆」と書いて練習したが投票場で忘れてしまった古老の話がありました。西光を支持した小作農や部落大衆の識字率の低さも影響したと考えられました。

 それから一ヶ月後の一九二八年三月一五日、「治安維持法」違反で共産党員は一斉に検挙されました(「三・一五事件」)。大阪にいた西光万吉も即日天王寺警察署に留置されました。四月一〇日には労農党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令が出されました。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


from「水平社の薔薇」


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