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2002年07月03日(水) 姫だるまの社会科学例会2002

青春を生きる人たちへ
 
vol.1「近代主義批判」

 古来、未開人はアニミズム(万物は霊魂にみちみちているという信仰)に見られるように、自然と人間との間に区別をおいていませんでしたが、2500〜2600年前ターレスが宇宙の根源を水であると言い、自然を自然として人間から区別して客観的に説明しました。宗教的なもの、非合理的なものを退けて客観的な法則を最初に問題にした彼は「哲学の始祖」と呼ばれ、ここが哲学の発生と言われています。
 主観と客観を区別し、人間が物質から自己を区別する自己意識は、商業と世界貿易の発展で平等が万人の目に見えるようになった近世に到って、ようやく確立したと言われています。つまり、近代的自我の確立はこれらの基礎の上にはじめて可能となりました。
 この「近代的自我の確立」の取り違えが、戦後の全般的な思想的無風状態の思想的根源と言われています。政治的社会的解放によって決着しない個人の内的世界の拡充において人間は純粋に人間的でありうる、すなわち純粋なるエゴに人間の本質があるとする考え方を近代主義といいます。
 この近代主義がくせもので、これに思想的根源をおいているのが「民主主義の根本は多数決である」という考え方です。すなわち、近代主義は多数決以外に、真理と「民主主義」のよるべき客観的基準が存じえません。これを「多数の暴力」と称します。
 繰り返しますが、「多数の暴力」、「民主主義の根本は多数決である」という考え方は近代主義から出てくるのであって、民主主義から出てくるのではありません。それは、教育の客観的基準である科学と基本的人権の権威を否定し、一切の社会理想に対して懐疑的な態度を取る近代主義にその思想的根拠を置いています。近代主義者が一切の価値と権威を否定するのは、エゴ(かけがえのない「個人」)とその利害(主観・実感・信念)を真善美の唯一確実な基準に高めたいからです。
 同時に「少数意見の尊重」という原則も近代主義のこの同じ原理から出てくるものです。真理の客観的基準が否定されたところにおいて持ち出される少数意見の尊重の主張は、単に少数者のやましい利害の主張という以外の意味を持ち得ないからです。
 自己についてのみ配慮するに到った近代主義は もはや現実を正視し得ず、理論的には 実践の基になる外的現実の把握の抽象性、無性格性となって現れ、思想的には資本の自由(権力)と人民の自由(権利)を区別できず 階級対立を曖昧なものにすることとなって現れました。こういう純粋なエゴの自由は、他人の服従を前提としてのみ可能であり、それは「上」に対する無力な反抗が直接「下」、「他」に対する専制であるような自由です。
 近代主義者が、全体としての人間を自我(個人)と他我(人類)、内的現実と外的現実に二分割したものを統一する基礎は、理性と人類性にあり、そこに人間の本質があります。それを論証し「純粋なエゴに人間の本質がある」とする近代主義の原理に打撃を加えたのが唯物論哲学でした。

 人間の本質は人類性と理性にあること。民主主義がそれに基づいてのみ可能となる基本的人権とは、この人間の本質の、すなわち人類平等の権利(自由)の法、規約における表明とその保証に他ならないこと。この基本的人権のうちにこそ、自然、社会の物質的、経済的必然性と異なった、政治的組織における自由と進歩の客観的基準があること。自由と主体性は、客観的必然性と基本的人権に基づく、すなわち科学と民主主義に基づく理性の自律のうちにのみ存ずるということ。

 これらを再確認しておくことが、近代主義の名の下にむきだしのエゴイズムが持ち出され、それがファシズムに発展しようとしている時、特に重要でした。それに伴う民主主義の概念の混乱についても、問題はどう立てられるべきかを提示する必要がありました。

 民主的決定とは基本的人権に基づく決定のことであって、多数決のことではない。基本的人権に基づく判断は、それがただ一人によって主張された場合でも、それは全人類の意見であり、絶対多数の意見である。
 多数決は行動統一の原理であり、そういうものとして多数決原理は極めて重要な意義をもっている。しかし、それが有効で正当であり得るのは、その決定が基本的人権に抵触しないそのかぎりにおいてである。
 基本的人権は一切の法、一切の決定に優先するものであり、それの侵害に対して有効なとりうるべき一切の手段を尽くしてたたかうことは人間に課せられた神聖な義務であり権利である。(ついでに言えば、科学と基本的人権は、教育と道徳の基礎・原理であり、そこには中立はあり得ず、そのために献身することは教育者の最高の倫理である。)

 以上のことから、近代主義と唯物論哲学との間には、自由(人類平等の権利)の概念に原理的な、絶対的な対立があったことがわかると思います。すなわち、前者は民主主義の一分子も含まない「エゴ」の恣意の自由を表明する立場、後者は基本的人権のうちに自己の自由とそれの真の表明を見い出す立場です。
 近代主義者はまた、唯物論的立場は「個性」を卑小化するとも吹聴していますが、個性は生理的遺伝に基づくものであって焼き直さない限りそれの発現を阻止したり変更したりすることは不可能であると言えるでしょう。科学と民主主義のために献身した人々は、そのことによってより偉大な個性になった(知性はいっそう鋭くなり、意志はより強固となり、愛はより深くなった)だけだと思います。
 
 
 参考文献「マルクス主義と自由」(森 信成著・合同出版) 
 青春を生きる人たちへ
 
vol.2 歴史における個人の役割

 理性的なもの(科学的な真理とか民主主義の発展とか基本的人権)が実現されていくためには、非合理的なもの(宗教とか国家とか資本とかの人間を疎外しているもの)を相手にしなければいけません。これは簡単にいくものではないことは誰が考えてもわかると思います。その実現の保障はあるのかを問題にする哲学を史的唯物論といいます。
 歴史がどれだけ進歩したかをみるには 一貫しているものがなくては測れません。既に述べましたように、科学とか民主主義とか人間の個性の拡大と獲得に向かって進むことが世界史の進歩という概念です。
 よく、人間の本性は善であるとか悪であるとか白紙(タブラ・ラサ)であるとか言われますが、善とか悪とかいう場合、それを区別する基準は何かという問題があります。既に言いましたように、世界史の進歩の基準に沿う行為が一般的に善であると言えます。これに対して、人類の利害に反して自分の利益をはかる行為は悪です。人間は本来社会的な存在としてそれほど悪に生まれついていませんが、一定の社会関係のもとでは、悪が人間の本質と言われるようになります。
 カントやルソーが理性的なものを実現しようとする場合、まず人間の本性は何かということから考えました。そして、それに従って理想の社会を頭の中で考え、その理想を知っている人、つまりエリートが現実の人々を理想に向かって引っ張っていきます。この考えは一般に、啓蒙主義ないし空想的社会主義と言われていますが、理想と現実のつながりを問題にしないので空想的なものになり、結局のところ成功の保障が存在しません。よって、理想と現実、つまり自由と必然、理論と実践がいかに統一されるかを解決する必要性が生じてきました。
 啓蒙主義の欠陥は、「人間は環境の産物であり(必然の領域)、しかも環境は人間が作る(自由の領域)」と二元的にとらえたことにより、「古い環境に従って古い思想が生まれるが、新しい社会環境がつくられるためには新しい思想が既に発生していなければならない。そうすると、新しい思想はどこから発生したのか」という矛盾に陥ることです。
 この矛盾に対し、啓蒙主義者は、新しい思想、価値理念を「無からの創造」によって説明しました。「新しいものは無から出てくる」とは、教祖や天才が急に思いつくということになります。新しいものがどこから発生してきたのかを説明できずに「無からの創造」をいう場合には、これは説明ではなく無説明と同じことです。私たちが理論的・理性的にものを考えるという場合には、「無からの創造」という考えを否定しなければならないと思います。
 新しい環境は、古い環境の体内に必然的に生まれてきます。これが発生してくると、これにふさわしい思想が生まれてきます。したがって、この場合には、意図や願望から独立な、客観的な世界史の必然性に基づいて、新しい思想が発生してきたことを説明できます。この考えを科学的社会主義といいます。
 世界史の必然性の認識が非常に進んだのは、フランス革命の後においてです。それ以前は、特定の人間が、特に英雄が歴史をつくると考えられていました。
 社会問題というのは、それを否定する条件がすでに成熟してきている時に、同時に起こってきます。つまり、社会問題はそれの解決の条件と一緒に私たちに与えられるわけです。ですから私たちは現在の矛盾を否定して新しい社会を作ろうと思う場合に、頭の中でつくられるべき社会のことを考える必要はないわけです。それの解決の条件がすでに現状の社会のうちでつくられているのだから、それをさらに発展させるという方向をとれば良いわけです。
 一定の思想が人々の間で大きな影響力を持つのは、人々がこの思想を待望している時、広範な人々の間にこの思想を受け入れる地盤が出てきた時、しかもこの思想を明確に表現した場合に限ります。この意味で、天才とか英雄とかは、新しく出てきた問題でみんながぼんやりと感じ欲しているこの一番基本的なことを、最も強く欲し、それを実現するのに最も指導力を発揮する人ということになります。天才というものは条件があれば非常にたくさん出てくるものです。例えば、ギリシャのアテネの時代には、非常に小さい町でしかも短期間に、哲学家とか悲劇作家とか非常にたくさんの天才が生まれました。ルネッサンス期のイタリアでも、短期間にダビンチとかミケランジェロとか多くの天才を生み出しましたが、そこは人口10〜20万くらいのフロレンスという都市でした。ところが、中世期は非常に長く続いているのにほとんど天才を出していません。それから薩摩藩とか長州藩の下級武士には明治維新の時に非常に才能のある人をたくさん生み出しています。
 一方、思想家は新しく出てきた問題でみんながぼんやりと感じ欲しているこの一番基本的なことを明確に表現する人です。例えば、天下が太平である徳川時代の初期に身分制度はけしからんと言ったところで何を言っているかというだけに終わりますが、幕藩体制の体内に非常な矛盾が起こっている時にはこれを放棄して四民平等の明治維新に進むべきであるという要求はみなの受け入れるものになります。部落差別という現状の矛盾をなくして、差別のない新しい世の中をつくるという思想は、古い生産関係の内部においてはまだ理想にとどまってはいますが、それが必ず実現されるという条件がこの内部にあります。この条件の必然性が顕在化してくると、これを実現しようという理想が人々の間に生まれてきます。理想が必然性に依拠しているものは、必ず実現され得る理想であるから、この場合、理想と現実の間には分離はありません。理想が明日の現実になります。

 一定の条件がある場合、個人は一定の発展の方向というものをかえるわけにはいかないけれども、それがどのように具体的な過程を経て、どれだけ急速に実現されるかというところで、歴史における個人の役割は非常に大きな意味を持っているわけです。

 参考文献「唯物論哲学入門」(森 信成著・新泉社)
 


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