
私は、梶原先生にここは上品に言わにゃいかんように先回言われましたけれど、私はやっぱり育ちが育ちでございまして、女という言葉が大変好きでございます。女を悪う言うときには女。女性がと言うのは本当にこう……。私は男、女というのは大和言葉として大好きです。だから、あえてこの場でも女ということを使わせてもらいます。
私も、御承知のように被差別部落の貧乏な家の女の子として生まれました。だから、小さいながら私は母に「なぜ女に産んだろう、私を」と、もうしょっちゅう言いました。そして、入学するまでは男の格好をして、母に「なぜ女に産んだらあ、なぜ女に産んだらあ、男になぜ産まらったらあ」、こんな難題を持ちかけた子供というのはまずめったにいないと思いますが、私は随分母を困らせた記憶がございます。それは、幼いながらでも、女性がべっ視され、私の父は当時社会主義運動をしておったもので、割方革新的なようなものではございますけれども、女性に対するべっ視、女の子に対する蔑視は一方ならんものがございました。私にしょっちゅう、「この子が男の子なら少々苦労してでも上級学校へ行かすものを、この器量の悪いおなごの子にこれ以上学問をつけて理屈を覚えらいたら、嫁のもらい手はない」というのが父の言いぐさでございました。
私は、その当時の女に対するべっ視というもの、牛と女房はたたいて使わないかん、こんな言葉さえありましたし、そんな中で育ったもので、小さいながらにもなぜ自分は女に生まれただろうという疑問を持ったのだろうと思います。それはずっと持ち続けてまいりました。だから、私はこの議場でも何回か言いました。この議場の中に、せめて3割なり4割なりの女が欲しい。そしたら、世の中を随分変えるであろう、女の感性で。そして、こちらの執行部席にもせめて三、四割の女が答弁したりするようになってほしいというのは私の念願でございました。それを、さすがに賢明で人権思想豊かな尊敬しておる橋本知事が女の吉良副知事を選任されたということは、大変うれしゅうございます。確かに御苦労は大変大きいと思いますが、女は、女の一念岩をも通すということわざがございます。どうぞその強い御意志で、この困難な高知県勢の浮揚のために懸命の努力を惜しまなくやってほしいと心からお願いをすると同時に、おめでとうございます。(平成13年12月定例会より)
去る十一月十二日、介良の勤労者体育センターのトイレの二カ所に「今や私たちがえたに差別を受けている。えたは社会の害虫、えたを殺さなければ日本は滅び、死ぬ」、「えたを養う税金は一銭も払えない」。十一月二十八日、追手筋のダイアパレスの駐車場に「えたはウジ虫、社会の害虫だ」。また、十二月三日には、中央保健所の駐車場に高さ百八十センチメートルの所から大きな字で、ダイアパレスと同様に「えたはウジ虫、社会の害虫だ」と書いてありました。さらに、私がこの原稿を書いておるさなかでございましたが、十二月八日、公園の追手門にも同じく「えたはウジ虫、社会の害虫だ」と書かれていたのです。私は、この人生、このような差別事件が女に対しても、障害者に対してもあったことを一度も知りません。
また、競輪場において、再三にわたりお酒を飲んでは「朝鮮人あほう、ばか、えた」を繰り返す男性がいました。余りのことに私はその方に一度会わせてほしいと言って、福祉事務所の方たち立ち会いの上でお会いいたしました。土佐市高岡の生まれとのことで、私はその方に、「確かに土佐市高岡には同和地区があります。あなたが六十年たっても忘れることのできないぐらい地区の方にひどい仕打ちを受けたに違いない。お酒を飲めばえた、朝鮮が出るのは、どんな仕打ちをだれから受けたか聞かせてほしい。その方に今からでも私は責任を持ってあなたにおわびをさせます。もしその方が亡くなられているなら、その人の子供や孫にでも謝らせます。だれもいなければ私がその人にかわって三つ指ついておわびを申し上げます」と涙ながらに尋ねましたが、「忘れた」の一点張りでした。
忘れたのであれば酒を飲むたびに言うはずはない。まさに、予断と偏見による社会意識としての差別観念であったと思います。その方は六十九歳で、私とは四歳違い。その当時の部落の者は、むしろ学校現場ではひどくいじめられました。私の人生でも一番差別されたのが片倉の製糸の時代と学校でありました。差別された事実は恨みはしませんが、何年たっても忘れてはいません。だから、お酒を飲むたびに私たちを差別するほど痛めつけられておったなら、必ず忘れるはずはないと私は思いました。
また、私の事務所に在日韓国人の方がいます。その方を指して、「この方もあなたがたびたび差別されている朝鮮人ですが、今まであなたは朝鮮人からどんな迷惑をかけられたか教えてください」と前回同様に尋ねました。そしたら、まさにその方は開き直りました。「私たち日本人はみんな朝鮮人を差別するように教えられてきた。それは私だけではない」と言うのです。私を初め立ち会った行政の方も唖然といたしました。日本の朝鮮に対する植民地政策による人権侵害は今なおはかり知れない感をいたしました。だから、私は差別を受けるのはまさに筆頭が私たち部落民であり、次が朝鮮の人たちだと思っています。女に対するこんな屈辱的な差別は一度も聞いたことはございません。
そこでお尋ねをいたしますが、この十年前にも今も、一部の人たちは部落差別はほとんどなくなった、人権一般行政に移せよと言っております。しかし、現実から目をそらしては啓発効果や行政効果も上がらないと思います。私も女です。女に対する差別も嫌というほど受けてきました。しかし、部落差別とは質、量ともに違うのです。だからといって、女に対する差別、障害者に対する差別、在日外国人に対する差別等も許されることではないのです。地球上のすべての人間の尊厳が守られるべきであると、世界人権宣言の大切さを説いてきたのです。女性差別も障害者差別も世界共通の課題でありますが、部落差別は日本固有の問題であり、行政課題であるはずです。
私がもし被差別部落に生まれなかったなら、こうしてこの壇上に立つ議員生活は絶対になかったと思います。だれも人間はこの世に生まれるときに親を選ぶ自由もなければ、地区を選ぶ自由もない、国を選ぶ自由もない、肌の色を選ぶ自由もないままに、私は確かに封建時代不当な差別を受けたえたと言われた両親のもとに貧乏人の女の子と生まれたからこそ、世界のすべての人間が平等であれとこの道へ入って、こうして壇上に立つような生活を送ったと思います。もし私がそうでなかったら、人も出よとも言いますまいし、私もこんな議員生活は送らなかったはずです。
(平成10年12月定例会)
