
平成10年12月
また、同和教育についてでございます。九年前に私の地元の朝倉中学校の澤谷校長先生が大動脈瘤破裂で急死をいたしました。私も葬儀に参列し、同和教育にもとても熱心な良心的な教師だったので、お別れを心から惜しみました。その奥さんは、四年ぐらい前から私のめいのうちにお手伝いに来てくださっています。めいの話では、亡くなられた澤谷先生はおばちゃんのことをとても心優しいよい人だと日誌の端々にも書いてありますと言ってくれておったようです。私も公私ともに信頼し合って、荒れ狂っていた朝倉中学校を立て直すためにお互いに手を取り合って頑張ってきたつもりです。澤谷先生は、「僕はもうあと一年で退職するので、森田さんの一代記を書かせてもらいます」と、何回も何回も私を励ましてくれました。
私は、教育熱心だった教師だからこそ、熱心な余り御自分の体をもいとわず、毎夜毎夜子供の指導や当時行方不明だった同僚教師のことで奔走したと思われます。いわば、教育熱心な余りの過労による公務死だったと推察いたします。しかし、地方公務員災害補償基金高知県支部の審査会では公務災害と認定しなかったようです。それに対して、遺族の方は違法だとして高知地裁に訴えられました。私もあの先生の公務災害認定にお役に立つなら、どんなことでも証言してやりたいとさえ思っています。
その後、「澤谷先生の公務災害認定を支援する会」が県教組と全解連によってつくられたようです。このビラを見てください。まず、五月十日には、高知民報から「公務災害の認定求め、澤谷校長「支援する会」が発足、死因は「解同」の圧力によるストレス」、これが大々的に配られました。また、十一月になってからは、恐らく見えると思いますがこのように、「澤谷元校長死亡の公務外認定取消訴訟、十一月二十七日に第一回口頭弁論、「解同」高知市協(森田益子議長)の学校介入が主要因で、一九九〇年一月にストレスが原因の大動脈瘤破裂で急死した澤谷楠寛・元朝倉中学校校長の公務外認定の取消しを求めた裁判の第一回口頭弁論が」ということです。
私は、それなら災害補償基金高知県支部長橋本知事より私を訴えなければならないのではなかろうかとさえ思います。教育者の良心にかけて過重な御苦労をされて亡くなられたという主張が大切であるはずです。私たちの圧力によって嫌々御苦労されたのとは全く筋が違います。きっと草葉の陰で亡き澤谷校長先生は嘆いているのではなかろうか、先生がお気の毒でなりません。私たち地元では、澤谷先生の公務災害の認定を有利にするために、解放同盟の組織を挙げて署名運動でもしたい、こんなことを話し合っている矢先でした。
「支援する会」の皆様方は、本当に公務災害の認定をさすための支援が目的なのか、私たちを攻撃し、同和教育をしていたなら自分もこんなに命を失いかねないというでっち上げが目的なのか、私は彼らの意図が理解できません。このことについて質問するつもりはありません。しても、これは裁判で抗争中だと言われることは十分知っております。しかし、私がなぜここでこれを問題にするかというと、同和教育がこのことを引き金におろそかにされはしないのか。今までとかく学校は閉鎖的だと批判されがちでした。それが大きく変わり、開かれた学校づくり、地域ぐるみの教育が求められ、教育委員会としても教育改革の柱にこのことを声を大にしているのだと思われます。
私たちの朝倉には、御存じの方も多くおられると思いますが、昭和二十年の敗戦まで四四連隊という軍隊がありました。朝は、私たち朝倉の者は「とっとと起きよ」という起床ラッパで起こされました。そして、昼間は「出てくる敵は皆々殺せ」という進軍ラッパを聞かされ、夜は「兵隊さんはむごいわね、また寝て泣くのかよ」と哀愁を帯びた消灯ラッパで床についたものです。その中で周辺に居住していた私たち三カ所の被差別部落の者は、赤貧洗うがごとき差別と貧困の中でも、兵士の苦労をさまざまの形で支え慰めてきたのです。朝倉駅から戦地に行く兵士を幾たび涙で見送ったことか。さらに、国立病院は旧陸軍病院だったので、傷ついた傷病兵の出迎え、戦死者の遺骨の出迎え。
朝倉の住民は他の地区と少し違う感情の中で、人権の守られない社会には平和は守られない、平和を守らない社会では人権は守られないと体をもって覚えました。当時の軍隊での部落差別はひどいものでした。だから、同和教育に対しては強い、強い願いを持っております。
一つの例ですが、私より三つ年上の者が、軍隊に行って文字を知らないために「入浴」という漢字が読めないし、「入浴」ということに理解ができなかったようです。私のところはその当時理髪店をやっておりましたが、その青年は一週間目の外出に出てきて、「おんちゃん、入浴を知っちゅうか」、父はニューヨークを聞かれたと思うので、「そりゃあ知るかや、ニューヨークはだればれ知らぬぞ」と。「そうじゃろう。軍隊へ行ったらのう、おんちゃん、風呂に入ることを入浴という。だからおんちゃんのところへ兵隊に行く前に散髪に来た人には、軍隊へ行ったら風呂に入ることを入浴ということを教えちょいちゃって。あしはそれを聞きただしたばっかしに、このとおり仕打ちを受けた」と言って、お腰をあけて見せられました。「えたが何てことを言やあ、人を愚弄すな。入浴を知らぬか」と言って帯革でひどく仕打ちをされた、この光景が私はいまだに忘れられません。
だから、同和教育に対する願いは、ほかの地区とはひときわ違うものを持って育ちました。その願いが行政を動かし、高知県ではたった一校、朝倉第二小学校を三十人学級にしていただきました。その影響で中学校にも一定の加配がされました。当時は文部省の学級定数は四十五名でした。その成果は決して行政みずから実施してくれたのではありません。地元と教師たちと話し合い、運動、要望があったたまものであります。それが学校への介入だろうか。腹は立たないが、こんなことをする人たちを嘆かわしくさえ思います。地域の者が学校に意見や要望を言うことを介入というのか、わかり切った質問ではございますが、改めて良識ある県民の代表であるこの議会で、教育長にはっきりとお尋ねをしたいと思います。
さきに述べましたように、部落差別は後を絶ちません。特に、学校現場での問題は、部落問題について教師自身が本当に不合理な問題として怒りを持って教えているか、歴史をとかく支配の側のみに陥って教えてはいないのか、支配され差別を受けた人たちがどんな歴史をたどりながら日本の今日の文化をつくり上げてきたのか。解剖学の最初は、当時牛馬の解体をさせられておった我々の祖先の手によってなされた事実が大阪の人権博物館で立証されています。その他、世界遺産にもされている京都などの名庭園もそうだとされています。教える側の価値観が変わらなければだめだと思います。しかし、児童生徒が聞き逃さない、見逃さない気風もつくり上げてくださったことは大きな成果の一つであります。
安田女子大学の高場昭次先生は、「子供の人権と同和問題」と題して語った中で、我が国の子供の権利についての認識は、同和問題の根絶を目指す同和教育によって啓発され、深化されたと言っても過言でないと申しております。
さらに、我々が今後子供の権利を守っていこうとするなら、敗戦後六・三・三制の男女共学による民主教育が進められるようになったとき、子供は希望に燃えて登校しましたが、そこには差別と貧困によって就学できない子供たちがたくさんいました。義務教育六年間でさえろくろく済ませられないのが、九年になったらとてもではないが就学できない子供たちがおりました。そこで、高知県の教師たちは子供を学校に連れ戻すために真正面から取り組みました。同和問題の厳しい現実に、教師たちは改めて人間の権利、子供の人権の大切さを学んだのであります。「きょうも机にあの子がいない」という実践は、子供と教師の差別を許さない声として、戦後間もなく良識ある教師や地域の人たちによって同和教育が創造され、発展していったと言えますと語っております。
今も県下では、各地で部落のおばちゃんたちが差別ゆえに奪われた文字を奪い返すために、一生懸命識字学級が行われていることを御承知かと思います。その当時の不就学、長欠の児童生徒は、今の不登校とは全く異なり、行きたくても家の手伝いや子守等労働しなければならなかったのです。当時、朝倉中学校の福祉教員だった谷内先生たちはまさにこの草分けであり、一時期七十名もいた不就学の子供を日夜をいとわず保護者を説得してゼロにしたというすばらしい成果が、日本の教師の胸を動かし、大きな同和教育となり全国に広がっていったと先生も語っております。
全国同和教育研究大会は五十回を重ねました。民主教育という一般論では解決し得なかった先輩の教訓に学び、同和教育を基礎に据え、今後すべての人権を守っていくことが大切だと思われるが、教育長に改めてお尋ねをいたします。
