たりたの日記
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2016年01月15日(金) 夢の描写を読む < 吉行淳之介「夢の車輪」>

以前に、正確には2005年の11月に書いた文章がひょいと出てきた。
どこかに寄稿したもののようだ。ところが残念なことに、この作品が、いったいどのようなストーリーだったのか、私の脳は記憶してはいない。記憶してはいないながら、この文章を書いた時の気分は覚えている。文章からも察することができるが、わたしは、わたしなりの発見にわくわくするものがあったのだ。そして、久しく、そうしたわくわくするような読書をしていないと思い当たった。そして、アマゾンに、この本を注文した。もう一度読んでみたいと思った。わたしをそんな気分にさせた、12年前の文章を
ここに残しておくとしよう。



夢の描写を読む < 吉行淳之介「夢の車輪」>

わたしは、よく夢を見る。
昼間、電車の中で、あるいは人と話をしている時でも、しゃべっている単語と単語の間のわずかな隙にさえ夢の谷間へストンと落ちることがある。すぐに意識は戻るのだが、そこへ落ちた時に見ていたものの余韻が残っていて、夢を見ていたことを知るのだ。

夢はわたしが現実の世界に戻れば消えてしまうように感じるが、どうなのだろう。意識が現実の世界へ戻っても、夢は夢でそのまま無意識の領域の中で進行しているのではないだろうか。
夢はわたしが眠りについてから、やおら始まるというものでもなく、こうして現実の世界で生きている一方で、同時進行として心の中で起こっている、もうひとつの体験ではないのだろうか。
次元の違う空間、つまり夢の支配する場所を別の自分が生きている、だから、ふっと眠りに落ちてしまうと、まるでスイッチが切り替わったように、夢の場所で生きている自分にシフトするのではないだろうか。

ここしばらく吉行淳之介氏の夢を題材にした短編集「夢の車輪」に始まり、「菓子祭」「砂の上の植物群」などを読みながら、夢について、また内的リアリズムについていろいろと考えを巡らした。

夢の中では、この制限の多い肉体を持ってしては不可能なあらゆることが可能だ。
鳥のように高い山から谷底へ急直下しては地面に着くすれすれのところでまた空に舞い上がったりする。その気分にはやけにリアリティーがあって、自分はかつて鳥として生きたこともあったのではないだろうかとさえ思う。しかし、夢の中で体験することは心楽しいことばかりではない。人を殺してしまった。何者かに追われる。迷路に迷い込む。余命がいくばくもないと知る。大切な人を失う。夢の中で、その場から消えてしまいたいと思うような窮地にしばしば立つ。しかし、それが夢だということが分かると、大きく安堵する。この立たされる緊急事態とそこからの解放が、何よりも夢が担っている働きなのだろう。
そうしてそれはそのまま、内的リアリズムを描き出す文学の働きでもあるのだろう。

表題作の短編「夢の車輪」を読んだ時、この夢の中を生きている時の生き心地とでもいうべきものが似ていると思った。自分にしか分からないような夢の中の気分がその短編の小説の中に立ち上っていて驚いたのだ。この奇妙な夢の中の気分というものは、どの人にも共通するものなのかと思うとそれもまた不思議な気持ちになる。

「夢の車輪が現実を踏み潰すと、その現実はなくなってしまう」と、物語の語り手は夢から覚めたもうひとつの夢の中で書き記す。
夢の中で緊急事態に立たされる時、きまって、その夢の現実をまるごと破壊してしまうように、その世界をリセットする物が助人のようにやってくるのだが、吉行氏はその物を「半透明の白い車輪」として、ビジュアルに登場させているのである。

物語は上等のカマスの干物を焼き、旨そうな匂いを嗅ぎながら箸を取上げようとした時、部屋の入り口から、この大きな車輪が入ってきて、目の前の魚や食卓を轢いてゆくという
奇想天外な場面から始まる。読者は、ほどなくそれが夢の中の出来事だと気が付く。普通なら、なんだ夢の話か、とがっかりしてしまうところだが、不思議と落胆はない。すでに、筆者が誘う夢の現実の中を夢の歩調で歩き始めているからだ。夢は夢としてのリアリティーを持っている。作者の筆力だと思う。

焼いたカマスを車輪が轢いていったところから、夢の中の時間は途切れることなく、いかにも夢の中特有の時間の流れに乗って事柄が展開してゆく。パチンコ屋で、約束の時間に間に合わないという気がかりを車輪がふみ壊してゆくと、今度は思わず拾い上げてしまった革の手袋の中から手首が現れてきて窮地に立つ、どうしようかと思案にくれたその時に車輪がやってきて、語り手は喜びの声で叫び、夢が終わる。
そうして夢から抜け出した語り手は、この車輪が回っているからには、日常の世界に戻れるなと安堵し、それなのに、夢の中での恐怖が薄らぐと「またいつもの暮らしに戻るのか」という気持ちになるというところで話は終わる。

ある意味夢は、夢ということにすれば何でも書けてしまうお手軽で故に危険な題材だが、吉行氏の「夢の車輪」は、夢の持つもうひとつの現実ともいうべきものが巧みに表されていておもしろいと思った。
夢の破片をたくさんのみこんで膨れ上がりゆっくりと回転している夢の車輪そのものが、物語の生まれるところ、言葉が紡ぎ出される場所でもあるのではないかとも思った。心の目を凝らせば、確かにわたしの心の底にも、そういうものの蠢きが感じられるのである。

ところで、この小説の始めから終わりに至るまで、語り手が誰なのか明らかにされていない。語り手はわたしというわけでもなく、また彼というわけでもない。つまり主語がない。この文章は日本語では通用するけれども、英文に翻訳するとなると困るだろうなと思った。英文の場合、文を成り立たせるためには主語が不可欠だからだ。
しかし、この主語がない文章の漠とした感じが、現実とは異なる夢の気分を伝えるのに効果をあげているのかもしれない。


たりたくみ |MAILHomePage

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