たりたの日記
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2009年03月05日(木) 杉の年輪



花粉症の季節。杉花粉に苦しめられている人には申し訳ないが、わたしは杉の木が好きだ。わたしの旧姓が杉山という事と関係があるのかどうかは分からないが、すっくとまっすぐに天に伸びて林立する杉を見ると体の中にその木のまっすぐな流れが入ってくるような気持ちになる。近寄って、そのしっとりと湿り気を帯び、柔らかい感触の木の幹を抱きしめたくなる。杉林の深い静けさや倉さも好きだ。
一昨日の続いて、昨日、父の「杉の年輪」と題された文章を打ち込んだ。

ここに登場する父の兄である伯父とは、数回しか会っていない。しかも最後に会ったのが小学校2年の夏だ。それなのに、父の文章の中で伯父の顔がはっきり見え、その鼻にかかった穏やかな声まで聴こえてきた。

父がこの文章を書いた二年後、伯父は急死し、葬儀のために四年ぶりに父の故郷へ行き、ずいぶん大きくなった従兄弟達に再会したのだった。その従兄弟たちの三人、伯父の長男、次男、長女はすでに、他界してしまった。

先代の杉がまだ残っているとすれば、80ほどの年輪が巻いていることになる。そして、手紙にあったように伯父があの時に植林したとしたら、そしてその杉がまだ切られないで残っているとするなら、その杉は40ほどの年輪を巻いていることになる。

父はもうそこへは行けない。今月末には長男が結婚する事を、そして近じか、父に曾孫が出来ることを知らせたくても、父はそのことを受け止められない。
・・・・そうだろうか。
木のように花のように生きている父であれば、わたしの家族の事も、わたし自身のことも、言わなくてもすでに伝わっているような気持ちがしてくる。




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杉の年輪 
  
           杉山正人  

別府に京都大学の火山温泉研究所というのがある。そこは、火山、温泉に関する資料を一般に公開してあるが、地質、生物に関する資料も珍しい。その中で一きわ目をひき、わたしの興味をそそったものに、台湾の阿里山の杉の断面がある。これは直径二メートルもあろうか、その大杉の年輪を数えて、十年おき位に数字を入れてあったように記憶している。何百年たった杉だったか忘れてしまったが、この阿里山の杉の研究が、ちょっと変わっている。その杉の断面の横に支那の年代表が掲げてあり、その説明に、阿里山の杉の成長が止まった時と、支那に内乱があった時とが一致していると言うのである。年代表と阿里山の大杉の年輪とを見比べ、成程と感服したものである。
 話は変わるが、私達一家が引揚げて来たのは、終戦後まもなくであった。私と二十才も年のはなれた兄の一家は、私達より一年遅れて支那山西省の太原から引揚げて来た。当時の生活は、苦しく、特に兄は水が合わぬのか病気続きだった。兄の子もそうであった。加えて父が中風でたおれた。そんな中で一時的な仕事で糧を得るのが心配になり、郷里に残っていた長女の姉の家や、叔父、叔母の肝入りで、もと私達の土地だった杉山を開拓してはと言うことになった。
 郷里の佐賀は、背振山の南側、杉どころとしては県でも屈指のところ、杉の美しい村である。
 開拓の話が決まってからは、母と姉と私が主に作業に従事した。飯盒にじゃがいものふかしたのが弁当、今にしては笑話、当時は良い方であったかもしれない。二十年位たった杉の伐採は、不馴れな私達には骨がおれた。親類の家からも、度々手伝いに来てもらった。
 弁当を山に運んで来た兄は、この杉の由来をなつかしそうに話した。父が朝鮮へ渡る時に植えたそうである。兄は郷里を離れることに反対したが、まだ青年であった兄の意見は取り上げられなかった。兄は杉の苗木を一本一本祈りを込めて植えたと言う。たしか兄にも恋人が居たに違いない。兄にすれば別れのつらさを、その苗木を植える事でいやされたのであろうか、心の記念樹である。切株の年輪を数える様になつかしそうに兄は見入っていた。
 杉の伐採には一年かかった、が全て終わったわけではなく、力が尽きたのである。これ位拓いたら、暮していけるだろうと言うことでやめたのである。
 父が死に、私は郷里をはなれ、その後、母もなくなった。兄の長男、直樹、次男珠樹も結婚した。その度に残っていた杉がお金に変わった様である。
 私も永く郷里には帰っていない。私の長男、正樹が入学前に帰ったままである。まだ杉は残っている。もう四十位、年輪をまいているはずである。系図も何も残っていない私の家である。ただ残った杉の年輪が、わが家の歴史を刻んでいる。
 兄の三男秀樹もそろそろ結婚するだろう。又、杉がなくなる。兄は又、その年輪を見つめるだろう。
 この夏、突然、兄から手紙が来た。開拓した土地に又杉を植えたいという便りであった。兄の子供達も郷里をはなれ、開墾の手がまわらぬのであろう。
 私は杉の思い出を書き綴り兄を激励し植林に賛成した。だが、先代の杉は残せるだけ残そうと、兄の手紙の文尾につけ加えた。阿里山の杉にまではいかずとも末永く年輪を刻んでほしいからである。

             
  昭和41年1月号 九州矯正


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