たりたの日記
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2009年03月03日(火) 父の原稿 「 山 」

もう、何年くらい前になるだろう。
相当に古い、「九州矯正」という雑誌の束を母から預かっていた。
少年院の教官をしていた父が若い頃に書いた文章がこの十冊ばかりの雑誌に載っているという。わたしが打ち込みをして、父の随筆集でも作りましょうという事になったのだ。
時間がたっぷりある時に打ち込みましょうと思いながら三年以上は経過したような気がする。いつも書架の隅にある、紐で結わえた古雑誌の束を見ながら、何とかしなくてはと思ってはいたのだ。

打ち込みなんていつでもできると思っていた。ところが、この4月からとんでもなく忙しくなるかもしれないという事態の前に、とにかく、この宿題を今月の内に済ませてしまわなければと思ったのだ。
今日は一つ打ち込む事ができた。
32歳の時の、わたしの記憶にない父親に出会ったと思った。

以下に「山」というタイトルのその原稿を載せよう。
この文章の最期に出てくる佩楯山(はいだてさん)はわたしが育った実家から見えていた山で、朝に夕に眺めてはその色の変化に驚いていた。父とその山について言葉を交わした記憶はないが、わたしも、その山に「命」を感じていたのは確かなことだった。

3月7日は父の誕生日。贈り物のつもりで父の文章を紐解き、掘り起こす作業を続けよう。



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杉山正人随筆集 1


     山 

私は朝鮮で育ったせいか、内地に帰ってからの山への引きつけられ様は、私の一面を発見した大きなものの一つである。
 朝鮮にも金剛山と言う、嶮しく、山水画に見る様な山もあったが、私が育った朝鮮の山は、そのゴツゴツした角がとれ土まんじゅう型になった老年期の山であり、内地の山に見られる下草の茂った欝蒼たる山は少なく、築山のように地肌が見え伸びきらない松が赤肌の山に点々と突き刺された、一年生の絵に見られる様な、山々として理解できる最低の山である、内地ならば丘と言ったところであろうか。
 これは朝鮮の気候がそうさせたのだと、今になって考え付くのであるが、朝鮮は一帯に寒気が強く又乾燥するので或種の植物は成長限界点に当たり、自生の闊葉樹はあまり見られない、夏の陽は地肌を直射し、冬の寒気は地下に凍み入り、年に数回の雨は山肌をけずり、赤土の山肌をいよいよ鮮明にするのである。この上、土地の人は夏の終わりから秋にかけ、冬の寒気に備えるため、三々五々、松葉かきを携え山から山へと梳る様に落ち葉をかき集めては持ち帰り、はては松の立木も梢を残して、手のとどく限り払い落としてしまう始末である。この様にして先に述べた低山の山が造られて行くのであろう。虎の住処としては、ちょっと貧弱な朝鮮の山であった。
 この様に下駄ばきで登れる朝鮮の山は脳裏に深くその印象を留めてはくれなかった。山の命あるものの如く迫りくる霊気に陶酔したのは郷里に帰ってからである。北の雷山、東の背振山は福岡県との境をなし佐賀の中央に位置する天山を西に見る私の郷里は山に憑かれた仙境である。
 百姓が田の仕事に出かける事を、「山へ行く」と言う里の生活は、大自然に抗し難き、あきらめが見られる、否、最早、山も人里も縁者となった安らぎであろうか、山はそのふところに幾代か変る人の世を抱き、里人は又幾代かその山を守り次いで来たのである。そして或者は山に誓いて出で、祈っては去り、思い浮かべては涙ぐむのである。
 だが私はその山間の地にあって慈父の如きはずのその山の怒りを一度見た事がある。年老いた猟師は、西の天山が、どてついたら嵐になると日頃言っていたがその日も黒い煙の様なむら雲が、黒ずんだ天山にひどい速さでかすめていた、老人にいわしむれば、どてついていたと語る、それであった。そして天山が黒雲にとけて天に昇って行く様にさえ思われる頃には北の雷山も東の背振の辺りも黒い緞帳に覆われていた。目前の麓の木立は風が出て、水中の藻の様にゆらいでいる、すぐ横の谷川の水は急に音を立てて来たように感じられた。私は当直の先生に後を託し、合羽を頭からかぶって校門を出た。すぐに横なぐりの雨に会った。合羽を通して、雨の当るのが感じられた。自分のような格好をした人と、二人三人すれちがった。道が坂にかかる頃、自分の姿を追う者がある、だが振り向くことさえ出来ない。・・・・橋が落ちるぞ、崖が崩れるぞ・・・そんな事を合羽の中で考えていた、ぞくぞくして、ぶるんと身震いした。ひどく光った。雷が鳴りはじめたなと・・・・その時、先生―と後の方で声がした。私は合羽の端をにぎって体をよじると、もうすぐ隣に追い付いて来ていた。中学の男の子である。
 なんでも、その生徒の父親が嵐になるからと言って、地酒を取りに行ったのを、迎えに行っている所なのである。この地方は、自家消費用に酒を密造し、その酒がめは山の日当たりの良い所に埋めているのである。その生徒は右手前方に雨でかすむ山を指した、あの山に親父が行っているというのである。
 ちぎられた木の葉が、つぶての様にとんで来る。左手の山の木は幹から揺れ、竹は葉をゆさぶり落とす様な格好で、ひどく波打っている。私はいつのまにかその生徒の親父のところまで同行する気持ちになっていた。そして、なるべく危険な道をさけて山に入りはじめた。一瞬、山は静まった。と、その時、全山の竹が一度に割れ裂けた様な響きのある音と同時に地面が宙に浮いた様であり、自分の体内の血管が大きく脈打ったのではないかと思うショックが息をつめた。落雷に会ったのである。私が気がついたのは、物凄い大音響とともに山の斜面が地滑りを起こした時である。私はまだ腹ばったままでいた、十米もの距離があろうか、すぐ目の前と思われる所を、夢の中で起きた響が自分の眼をさまし大きな杉の木立を前後に傾け又は交叉して、生きものの力でなさしめている様にして滑り去って行ったのである。地球上の出来事とは思えなかった。地球上の全てが崩れ去る音であった。
 生徒のことを思い出して、あたりを見た。横の藪に合羽が破れひろがっている。生徒はそこには見当たらない、私は体をやおら起こした、私の体には何事もなかった様である、別に痛みも感じない。私は生徒を探した。生徒の名を呼んだ。もう嵐も何もこはくはなかった。自分の叫ぶ声が自分だけにしか聞えないのではないかと心配した。山はひどく荒れ狂っている。木の枝がしきりに落ちて来る。生徒は藪から下の畑に落ちていた。顔は真青である。・・・・生きている。・・・目をあけている。体に別状はなかった。だが非常におびえている。山はひっきりなしに荒れている。こんな音がどこから出るのだろうかと思われる程山はうなっていた。二人は唯、立っている。山の音をきく様に。・・・・地滑りで白い地肌の出た斜面を大きな岩が転がって落ちて行く、その音はあまり聞えない。自分達二人だけが生き残っている様に思われた。帰る事も忘れていた。又白くはげた所を上の方から地滑りがして来た、今度は地震がして大きな響きをたて、すぐ足もとまで石をはねて落ちていった。大きな声を、はり上げないと、このまま倒れてしまうのではないか思う程、足の力がぬけた。ふと山の下の道を見た。多くの黒い人影が木立の間から、ちらちら見える。自分達を探しに来た人達である。私は吾にかえって、黙って立っている生徒をうながして引返した。村人にまじって、その親父も来ていた。その親父は、私に『山が怒ったのです』と言った。山が怒った、山が怒ったのだと私は囲炉裏に衣物をあぶりながら、くり返した。
 翌日の新聞には、暴風雨の爪跡という見出しで写真の報道がなされていた。だが私は山が自ら怒り、自らを傷つけて怒り狂ったのを見た。怒りの声も聞いたのである。何万年も前から、樹木を育て里人を育んで来た山の怒りとしか思えないのである。
 それ以来、私はそんな美しい山を見る時も必ず、あの山の中での荒れた情景が心のどこかで顔をのぞかせるのである。そして山は怒ると言ったあの声がよみがえって来るのである。私は未だ名だたる山に登った事がない。人吉に居た頃も度々市房山に登りたいと思った、白髪にも行きたいと思ったが、実現しなかった。非番の日には、大阪間あたりの球磨の川辺りの山や岩を描きに行った、そして目前の岩や木が荒れさわぐのを今か今かと、待ち構える気持ちを楽しんでいる様でもあった。
 今、居る大分県にも久住、祖母の山が待っているが、さして強い興味はなくなった。私は未だ山を征服する方向には気が向かないのである。目前の山を見て、あの山も怒るのだと思って見つめるのである。阿蘇の火口を見てからは、尚その感が強い。どの山もピクピク動いている、生きているとしか私の目にはうつらない。
 私は今、町の南に立つ佩楯山を見つめている。朝な夕なに、色を変える佩楯山は、土のかたまり、岩のかたまりとは思えない。怒ったあとの姿の様でもあるが、若々しい山である。
    
           
        < 昭和35年3月「九州矯正」初出 >



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