たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2008年10月06日(月) 映像・舞踏・朗読

<写真は正津勉著『嬉遊曲』アーツアンドクラフツ名 社刊>



正津勉文学ゼミに出席する。
この日はいつもの読書会とは趣の異なる、とてもアーティスティックな会だった。

正津勉氏による新詩集『嬉遊曲』の朗読とゼミのメンバーでもある 金子遊氏(映像作家・脚本家・HPシネマの舞台裏)のフィルム上映。
さらには特別ゲスト、俳人の生野毅氏と舞踏家の中村達哉氏による朗読と現代舞踏のパフォーマンス。

金子氏の映像は斬新で刺激的、それでいてノスタルジックで、心の深いところ、かなりデリケートなところに触れてくる作品だった。
奥三河・豊根村の花祭に取材した『ハナマツリ』、そこに写し出された二歳児の映像と繰り返す祭りのお囃子の音。
「掴まえておかなければ踊り出してしまう」その幼児を捉える眼。
なんだろう、この胸に刺さってくるような感覚は・・・
親がその眼に我が子の消えゆく「時」を焼き付けておきたいと切望する哀しさにも似た想い。
一瞬の中に永遠を見ようとする、その眼。

中村氏の舞踏に人間の身体とその動きの生生しさを見る。映像が映し出されるスクリーンの前に立つ、裸のダンサーの白い背中に『バグダッド1999』の映像が映る。スクリーンと人間の身体と、そしてその間の黒いシルエットが三重の立体をなし、とても美しい。身体の動きと静止の持つインパクトの大きさ。それが凝縮した、張り詰めた動きと静止であるだけに。

中村氏は、見たばかりの映像と、目の前にいる詩人、正津勉氏をイメージしたという即興の朗読パフォーマンスを見せ、聴かせてくれた。
知らない世界だった。朗読というフレームが外された。
それは人間の発する声と言葉の舞踏とでも言うべきもの。
飛び跳ね、転がり、潜み、うなり、その空間の空気を変え、奥行きを広げるような、何か尽きぬけていくような感覚。
言葉を音にするということのひとつ可能性と広がりを目の当たりにした。

正津勉氏の自作朗読を聴くのは久し振りだった。この詩人にしかない独特の朗読世界だ。
そもそも師との出会いは6年前の自作朗読会の会場だった。文学、酒、山とそれぞれの道筋を開いていただいたが、出発は朗読だったのだと思い到る。
詩人の魂が声になるその瞬間、一度きりの言葉の伝授。深くしんと沈む言葉の音。
この夏に刊行されたばかりの新詩集『嬉遊曲』は『遊山』に続く山の詩集。
「おいしい水」「イワナ」「カモシカ」「ツツドリ」「シダ」と馴染み深い山の仲間たちが詠われている。以前『遊山』からの朗読を聴いた時には、山はわたしにとっては遥か遠くに望み見る憧れの対象でしかなかったが、山に分け入る事が日常的になった今はその世界がとても親しい。この夏、詩集を手にした時、まず声に出して読み、その山の匂いのする言葉を楽しんだ。


しかし、これほど密度の高い芸術家達のパフォーマンスの後でなぜわたしのような芸術性の乏しい者が朗読するはめになったのやら。
今日は課題のテキストもないしと、気楽な気分で会場に入るや、師匠から「たりたさん、突然だけど、詩をひとつ朗読してください」と言われた。
朗読を学び始めたわたしに勉強の機会を下さろうというのだ。前もっておっしゃらなかったその意図も分かる。その場での即興性こそが訓練されるのだろう。有り難いことだ。(と、こう思ったのは後のことで、その時は、あわてふためいたのだったが)
ここはひるむことなく、その未熟さをそのままに、人前にさらすしかないと開き直る。

朗読は表題詩の「嬉遊曲―ディヴェルティメント」。
朗読しながら、わたしは師や仲間と歩いた山の中にあった。
あの時の蝶が見え、鳥の声が聞こえ、山間を流れる渓流は冷たかった。
思わず笑みが洩れた。あぁ、山の中にいる・・・と。
居直り気味に人前で読むことで眼前に開けた詩の世界だった。


たりたくみ |MAILHomePage

My追加