たりたの日記
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| 2008年10月03日(金) |
朗読と演奏、録音をめぐって |
昨日の日記を書いている時に朗読講座の長谷川先生からブログ長谷川勝彦の朗読講座の原稿が届いた。 <朗読と演奏、録音をめぐって>というタイトルのエッセイだった。 ちょうど、ライブ朗読、あるいは編集なしの朗読を録音することと、編集することの意味などをあれこれ考えている時だったので、この文章は興味深く、とても参考になる。
グレン・グールドの<録音は演奏会の代用品と考えられがちだが、コンサートこそが録音の「貧弱な代用品」なのだ>という主張、<人が音楽を聴くのは「個々人がじっくり考えながらそれぞれの神性(divinity)を創造する」ためと考える。それには録音媒体による音楽の方が適している>という考えは興味深い。 わたし自身、グールドのピアノは録音されたもので繰り返し聴いた。わたしにとっては録音された音楽そのものがグールドのピアノであり、その音は繰り返し聴いたためにすっかり自分の身体の一部にさえなっている気がする。
本来音楽にしても朗読にしても、身体性を持つ、時間の創り出す芸術のはずだが、今、録音や編集という技術を通して、それが留められるものとして、繰り返し再生され得るものとして、別の意味を持つに到った。そして、生で音楽を聴く回数よりも録音されたものを聴く機会の方が圧倒的に多い。
いや、朗読を公開するなどという事を始めてしまったが、繰り返し再生され得るという事を考えた時、何かそら恐ろしくなる。間違いや、気にいらない部分も繰り返し再生され得るのだから。
でも、それを気にしていたら、切ったり貼ったり、取り直しをしたりが果てしなく続きそうだ。なかなかアップできないだけでなく、朗読する事の楽しさもなくなってしまうかもしれない。 ここは、アマチュアの図々しさで、練習の場所としてお許しいただくことにしよう。
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