たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
この夏、実家に帰省した折、父の古くからの友人で、また同僚、わたしにとってはすぐ上の家に住んでいたMさんが、「おおの路23号」に載せる『 随筆集「みえ」の歩み』と題された原稿を、母に届けて下さった。
昭和三十七年、わたしが六歳になった年に発行された「随筆・みえ」に、父もかかわっており、父はその表紙の絵を担当すると共に、文章も寄稿していた。Mさんは、その原稿の中で、父のことに触れて下さり、当時の父の文章も載せて下さっていた。その事が嬉しく、胸がいっぱいになった。
「随筆集・みえ」には、忘れられない思い出がある。二十年ほど前、東京の大泉の教会に、F牧師を夫や子ども達と共に訪ねた時のことだった。F牧師はかつて牧師として三重教会に赴任しておられた事があり、わたしにとっては通っていた保育園の園長先生だった。
わたし達は日曜日の礼拝に主席しその後、牧師館でお昼をいただきながら、小さなお孫さんたちともいっしょに、団欒の時を過ごした。その際、F牧師は面白いものがあるからと、大切に保存されていた「随筆・みえ」の創刊号から五号までの冊子を出してきて、見せてくれたのだ。
文芸誌「随筆・みえ」のメンバーでもあったF牧師と父がそんなところで繋がっているとは知らず、まさか、こんなところで、昔父が書いた文章や、その中に書かれているわたしや弟の幼い頃の様子に出会うとは考えたこともなく、驚き、また感動したことだった。
今は二人とも成人して独立している我が子が、その時にはちょうど、幼稚園の年長児と年少児だったから、父の随筆の中に登場する弟とわたしと同じ年齢ということになる。F牧師夫妻は、あなたと弟さんは、ちょうどこんな感じでしたよと、我が家の子達を眺めながら、なつかしそうにおっしゃった。また当時の保育園のことや、「随筆・みえ」にかかわる話などを聞かせてくださった。そして帰り際、父が描いた五巻の冊子の表紙と、父の随想のページを、教会のコピー機でコピーし、持たせてくれたのだった。
その訪問から一年もしないうちに、わたし達一家は夫の海外赴任に伴い、アメリカのニュージャージー州に引越し、そこで五年あまり過ごすことになったが、その時いただいたコピーは、その後、数回の引越しにもかかわらず、失わずに済んだ。
実家から戻ってきて、二十年年振りに、しまってあるファイルの中から、「随筆・みえ」のコピーを取り出してみた。 三号には、父の随想と並んで、当時、わたしの担任をしてくださった、保育園のH先生の文章もあった。
保育園の五歳児の時、わたしは父に連れられて、三重教会で行われた、H先生の結婚式に出席したのだ。ウエディングドレスに包まれた美しい先生の姿を克明に記憶しているのだが、この随筆には、青年期のH先生の保育の仕事に寄せる想いや同世代の青年達とのかかわりや葛藤が書かれており、感慨深かった。
この文章の最期に、父が一号で書いている「名裁判」という随筆を記しておこう。ここで父が讃えている保育園の先生は、間違いなくH先生のことだろう。
名裁判 杉山 正人
最近、長女の方も、長男の方も『良い』と『悪い』の使い分けをひどくするようになった。長男はテレビを見ては、すぐ、「あれが悪いんじゃ」と言う。「父ちゃん、あれが悪者で、これが良いんじゃなー」・・・・・・「これが強いんだどー」等。こんな場合、私は無責任に相槌をうつ事を慎む様になった。 ○
私は夫婦共稼ぎであるため子供達を保育所にあずけている。五才の長女と三才の長男は日曜をのぞいては殆どその保育園に通っている。 或る雨模様の日であった。土曜日だっただろうか、私は務め先から園に廻り子供達を連れて帰ったが、園を帰りかけた時、保育園の先生が私に話がある素振りをされた。子供に気づかれないためであろう、私もこれは、うちの子が何かやらかしたなと直感した。 先生の話はこうである。 うちの長女の方と或る友達の女の子とが口論をしたのである。口論と言っても五つの子のだから大した事もない、言い争いであろう。その言い争いの原因が振るっている。少年院(院の生徒をさす)は悪いと友達が言ったのに対し、長女の方は悪くないと主張したのである。二人とも勝気でゆずらず、最期に保育の先生に裁きを仰いだわけである。少年院の職員である私も、この小さな子の質問に即答するにはまごつく問題である。先生は両方の子に「少年院の兄さんは、前にはいけないことをしたけれど今はそれを良くするために一生懸命勉強しているのよ」と言われたそうである。私はこの名裁判に敬服した。 先生は、私が少年院に務めているので、私の子供へは先生の言った考えとは違う意味で少年院を理解させているのではないだろうか、もしそうだとすると、親である私の考えと先生の考えがくい違うことになる・・・そんな事を心配されての話かけだったのである。私は、心よりその裁判にお礼をのべて帰った。 私は職場である少年院の事を家の子供達にはあまり話さない。少年院の事故で呼び出しを受けた時も、逃走生の捜査に出向く時も、子供達には「お仕事に行く」の一本槍で通していた。だからうちの子が少年院の生徒を理解するのは、少年院の体育祭だとか楽隊の生徒とか、奉仕作業に出て一生懸命働く生徒だけである。しかも父の務め先であるので少年院は悪くないと言い張ったに違いない。 私がその日、子供達に少年院の勉強をわかりやすく話をしてやったことは勿論である。 それにしても、私は園の先生の名裁判振り、幼い子供の気持ちをきずつけまいと気づかわれた裁判を子を持つ親として、否、非行少年の矯正に当たる職員として、振り返って見たかったのである。
|