たりたの日記
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数年前からふるさとの文芸誌「おおの路」の仲間に入れていただき、1月末と8月末に投稿している。
今回は父のことを書いた。文芸誌は紙面の制限があるので、一通り書いたものを、短くして投稿したのだが、ここに、最初に書いたものを記しておこう。
随想 父のこと
この夏も八月の半ば過ぎから十日あまり、三重町の実家へ帰省した。子ども達が小さい頃は家族ぐるみで帰省していたが、ここ数年は、もっぱら私だけ、一年に二、三度帰省している。 実家の玄関を入るとすぐ右側の壁にアマリリスの花を描いた大きな油絵が目に入る。この絵は父が退職した後、認知症が出る前に描いたもので、父の最期の油絵だ。
今から二十年ほど前、まだ認知症という言葉もなかった頃、父の記憶を司る回路に変調の兆しが現れた。そして、それは次第に進み、錯乱に翻弄される時期を過ぎ、やがてはすべての記憶を失うことで、反対に平安を得たというような経緯を辿った。 父の生活する施設を訪ねると広い食堂に他の入所者の方々と丸いテーブルに付き、食事を待っている父の姿が目に留まる。髪はまっ白で美しく、あたりに穏やかで平和な空気を漂わせている父の様子は、ここ数年来、変らない。
「お父さん、帰ってきたよ。美子だよ」 耳元で大きな声で呼びかけるが、父の反応はない。わたしの事が忘れられていることに悲しみを味わったのは、もう十年も前の事で、今はその事に痛みも、歎きもなく、今の父の安定した、緩やかな人生の最後のステージを、感謝を持って受け入れることができる。ともかく、こうして、生きていてくれる。父の存在がこの地上にある。その事がとても有り難い。
やがて運ばれてくる食事は、どれもペースト状になっていて、元の野菜や、魚の形を留めてはいないが、どれも、それぞれの素材がきちんと調理されたものを、潰したり、練ったりしたもので、種類の多さとバランスのよさに、有難いと感謝する。これらの食事が父の命を支えているのだ。
スプーンで一口づつ、ゆっくりと、食べ物を父の口に運ぶ。それは母乳からようやく離乳食に移ったばかりの我が子の口に、喜びと祈りを持って食べ物を運んでいた時の気持ちを思い起こさせる。あの時、「この食べ物が、この子の体を強く大きくしてくれますように」という祈りとともに食べ物を小さな口に運んだ。今、「この食べ物が、父の体を支え、命を保つことができますように」という祈りながら老いた父の口に食べ物を運ぶ。
実際、父は良く食べてくれる。口元に運ばれた食べ物を、父独特の優雅な動きでもって、ゆっくりと口に含み、もぐもぐと口を動かし、時間をかけてゆっくり飲み込む。そうして、用意された食事を残すことなく、最期のひと匙まできれいに食べてしまう。ここに、父の生きる力を見出して安堵する。まだ自分の口から食べ物を食べることができる。それを消化する内臓も健康だ。 食事をさせながら、父にいろいろな事を語りかける。もう言葉は通じないから、私の近況報告や、様々な想いは、心の中で、父の魂に直接伝える。父のところへ来る道すがらに聴いてきた音楽を父にも聴かせようと、イヤホーンを父の耳に差し入れてみた。 「お父さん、これは、わたしが今聴いている歌よ。いい歌でしょう」 耳元に入ってき音は分かるのか、わずかに顔の表情に動きが見えるが、以前のように、それを聴いているという様子は見られない。もう、メロディーやリズムといった音楽としては受け止められないのだろう。それでも、父の魂はその歌を聴いていて、 「あぁ、いい歌だ」と、言っているような気がするのである。 ゆっくりとした食事の時間が終わると、車椅子を動かして、口腔ケアの場所へ行く。そこには、食後の歯磨きをしてもらう人達が車椅子の中で静かに待っている。
父の歯はもう、三本しか残っておらず、口を漱ぐという動作もすっかり忘れているのだが、介護士の方は、「杉山さん、歯をみがきましょうね」とやさしく声をかけながら、歯ブラシで三本の歯を磨き、口を漱ぐ水を飲み込まないように、口の端に指を差し入れ、上手に、口の中の水を出して下さる。
部屋まで、車椅子を押してゆくと、介護士さんが、慣れた動作で、重い父の体を持ち上げ、車椅子からベッドへ移動させてくれる。床づれができないように、体を横に向け、側面にクッションを差し入れ、時間がくれば、身体の傾きを変えるというきめ細かいケアがなされているようだ。父にとっては孫ほどの若い介護士さんのさわやかな笑顔に、あぁ、父は良いところで生活させていただいていると思う。ベッドの上の父は、お腹が一杯になり、気持ちが良くなったのか、まぶたはもう重く塞がっている。すでに気持ちの良い眠りに入っているようだ。
「お父さん、また来るからね。元気にしていてね」 父の眠る部屋を後にし、また自転車で、母の待つ久知良の実家へ戻る。 父のいる施設から、実家まで自転車を走らせる間、道路の左側に、遠く、なつかしいふるさとの山々が見え隠れしている。高台になっている地点から坂道を下降してゆく時、自転車から見るふるさとの風景は、いつも、はっとするほど美しい。
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