たりたの日記
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| 2006年06月08日(木) |
幸田文著「姦声」を読む |
幸田文著「姦声」を読む。
全くもって凄い小説だった。文庫本でわずか25ページという短編だが、そこに凝縮されたものは並々ならぬもの。息を詰めて読んだ。
前回のゼミの時、Kさんがテキストの「崩れ」よりもこの「姦声」という作品にショックを受けたと、この作品を紹介された。隠れていた宝を見つけ出したようなKさんの言い振りに、すぐにも読みたいと思った。有難いことに、帰りにKさんがその本を貸してくれたので、家に帰るなり読んだことだった。
この作品は昭和24年6月の作品。幸田文は父露伴が死去した後、43歳で筆を執るようになったから、それより2年後に書かれたものだ。 おそらく実際の体験に基づいて書かれたものであろう。題名から察しがつくように強姦がテーマだ。強姦の標的になった作家が相手の男と全力を尽くして闘う、その壮絶なバトルの一部始終が、甘さのない高潔な言葉遣いと無駄のない完璧な文章で写実されている。 文章は心の中で起こることがらも表現することが可能だから、なまじっかな映像などよりも、その印象ははるかに強烈だ。
おもしろいと思ったのは、この作品が徹頭徹尾、一人の男への憎悪をエネルギーにして書かれているところだった。時が経ても消え去らない怒りを、みごと文学に昇華させていると感じた。書いてしまわないうちには終わらない闘いだったのだろう。作家は書くという作業でその口惜しい体験を追体験し、自分の内で決着をつけたのに違いない。
感情に任せた怒りや憎悪は見苦しく、とても読む気になどなれないものだ。憎悪を描きながらそれが好ましい作品として成り立っているのは、作家の優れた洞察力、人間の内部を見抜き、臆せず描く力にあるだろう。その運転手の男に加えて店の主人である夫、番頭たち、若い手代たち、蔵で働く者の人となりを、驚くべく筆力で描き切っていて二の句が継げない。
そしてまた、自分の怒りのみを主張するのも読み手を辟易とさせるものだが、作家は怒りにかられる自分自身もまた客観的に眺め、その時の自分を厳しく分析している。 作家が自分の苦痛を父親に訴えた時、父、露伴が「お前は重い女だね」と言う。 彼女が「重いって何です。」と聞くと、父親は 「何だと聞くようじゃ、いよいよ重い。おまえの心が居しかかっているから物が滞る。水の流れるようにさらさらしなくっちゃいけない。」 と言う。
この件は印象深く、この小説を支えるもうひとつの柱という気がするのだが、作家はしばらくして、父親の言う、そのさらさらした水の流れを下町の女たちから汲み取ることになる。 <さらりと受けて、さらりと流す、鋭利な思考と敏活な才智は底深く隠されて、流れをはばむことは万ない。流れることは澄むことであり、透明には安全感があった>とそれをひとつの理想としつつも、<遅渋と流水との間をまごまごしながら>歩む自分に葛藤するのだ。
嫌悪、怒り、葛藤・・・ この世の中で生きていると、向っ腹の立つ事や、人にも出会わないでは済まされないが、この小説を読みながら、そういう事ごととも文学的に向き合う術を教えられたように思う。 その中身を見極めること、自分から離し、普遍的な問題として捉えなおすこと。そしてまた、露伴の教えのように、そのものの重さをずんと身に受けたり、そのネガティブなエネルギーで自分を濁らせたりせずに、さらりさらりと流れ、澄んでいること。
ここに至って、とびっきり勢いよく発芽する音が内側でした。
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