たりたの日記
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2006年06月05日(月) 幸田文著「崩れ」を読む



正津勉文学ゼミ、今回のテキストは幸田文著「崩れ」。

人がある時、不意にある事柄に捕らわれてしまうということ。
そしてそのことと関わりを深めるべく猛進してゆくということ。
対象は人であったり、音楽や絵画、文学といった芸術であったり、またはどこかの土地であるかもしれない。
わたし自身、心惹かれる物には抗えず、猪突猛進の傾向を帯び、人から笑われるほどなので、そういった人の心の動きには少なからず共感を覚える。

文豪幸田露伴を父に持つ、作家幸田文は72歳の時、静岡県と山梨県の県境にある安部峠に楓を見に行った折、たまたま大谷嶺の崩壊の様子に触れ、激しく心を動かされる。そして、その後、日本全国の「崩れ」を見て歩くようになる。彼女が見た「崩壊」を文学者の眼で捉えたものがこの著書「崩れ」だ。

この本には静岡県の大谷崩れ、富山県の鳶山(とびやま)崩れ、富士山の大沢崩れ、日光男体山の崩れ、長崎県の稗田山崩れ、北海道の有珠山、鹿児島県の桜島へ崩れが描かれている。
地理にも、地質学にもはなはだ疎いわたしが、この本を興味深く読むことができたのは、文章そのものの、心地よさおもしろさ、そして、その文章を通して見えてくる彼女の有様や魅力の故だった。

この72歳の作家から伝わってくるものは、余分なものがそぎ落とされたような風通りの良さやのびやかさ、また自分をおもしろがるゆとりと共に、若者にも劣らない、めざましい好奇心と逞しい行動力、また自分への探求心だ。そういう意味では、枯れているというよりは、青竹のなまなましさをその年齢になってもなお保持している稀有な人と言った方が良いのかもしれない。

この「崩れ」の中では木や川や山は人間と同じ位置にある。それらに「挨拶」をし、また「かわいそう」に思う。自然との関係が親密だ。一見アミニズムのようにも受け取れるが、自然崇拝とは少し違うのではないかと思うのだ。崇拝の対象ではなく、同じ自然としての仲間意識、そんなもの。だからそこ「崩れ」に、彼女は自分自身の老いを重ねた。発芽や誕生の先には自らの力で食い止めることのできない崩壊が存在するということ。それは自然にも人間にも等しく在ることだと。

わたし自身、40を迎える頃、突如、植物に目覚めるという体験をした。今まで自分と無関係にそこにあった植物の声が、ある時、聞き耳頭巾をかぶったように、聞こえ始めた。そうするとそこから、自然全体が少しづつわたしににじりよってくるようになる。わたしの心や身体もまた自然の一部であれば、そこへの関心も深まる。心のしくみ、身体と心との関係、そして同じ被造物としての自然と人間、その背後にある創造主という具合に。
植物に始まった一連の流れが、今の山行きへと繋がっているのだろうと見当をつけている。
今のわたしは、「崩れ」そのものについてはまだ何の感慨もないが、あるいは70歳を迎える頃、その事が自分のこととして身に沁み、崩れる山を観る旅に出るのかもしれないと、これから迎えようとする老いにも心を泳がせた。

今回のテキストは14章のうち、3章までだったが、その中に、強く焼きついた文章がある。「心の中にはもの種がぎっしり詰まっている」というのだが、このイメージは凄い。見事に目には見えない、人間の心の仕組みを言い当てている。

人は心の中の出来事を、それぞれ何かの画像を浮かべて理解しているのかもしれない。例えば、わたしの場合は扉。心の中にはまだ開かれていない無数の扉があって、何かの折にその扉が開く。そうすればその中へ入っていかないわけには行かず、探索を始めるとそれがまた別の扉へと繋がり、扉はひとつ、またひとつと開いてゆく・・・とこういうイメージを描いてきた。

しかし、種。無数のぎっしりと詰まった種は扉に比べると、そのはてしなく多い数と、発芽に伴うエネルギーという点で、よほど生命力に溢れている。
しかも種は小さく軽い。重い扉とはずいぶん気分が違う。
人の心の中の出来事をそのように考える時、もっと軽やかで、楽しい気分に満たされる。彼女を突き動かした発芽は、確かに読むものの、なにかしらの種の発芽を促す力がある。
元気をもらった。

一章の中ほどにあるこの文章、わたしはこれが、この本そのものの「種」にあたるもの、要だと感じているが、それを記しておこう。

<人のからだが何を内蔵し、それがどのような仕組みで運営されているか、今ではそのことは明らかにされている。では心の中では何が包蔵され、それがどのように作動していくか、それは究められていないようだ。そういうことへかりそめをいうのは、おそれも恥もかまわぬバカだが、私ももう、七十二をこえた。先年来老いてきて、なんだか知らないが、どこやらこわれはじめたのだろうか。あちこち心の楔(くさび)が抜け落ちたような具合で、締りがきかなくなった。慎みはしんどい。締りのないほうが好きになった。見当外れなかりそめごとも、勝手ながら笑い流していただくことにして、心の中にはもの種がぎっしりと詰まっていると、私は思っているのである。一生芽を出さず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種もあろう。思いがけない時、ぴょこんと発芽してくるものもあり、だらだら急の発芽もあり、無意識のうちに父祖母の性格から受け継ぐ種も、若い日に読んだ書物からもらった種も、あるいはまた人間だれでもの持つ、善悪喜怒の種もあり、一木一草。鳥けものからもらう種もあって、心の中には知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。>


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