たりたの日記
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| 2006年05月07日(日) |
わたしを愛しているか |
イエスが十字架につけられる時、イエスの弟子だったシモン・ペテロは、イエスの前から逃げた。しかも三度も「わたしはイエスを知らない」と言って。
鶏が鳴いた時、イエスは振り向きペテロを見つめた。 ペテロは 「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 と言ったイエスの言葉を思い出し、激しく泣いた。 愛する師を三度も裏切らないではおれなかったおのれの弱さに、また浅ましさに絶望して。
そのペテロの前に復活したイエスが現れて言うのだ。 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」 イエスの眼差しはシモンを諌める眼差しでも、落胆する眼差しでもない、ペテロの心の深いところへ入ってくるような哀しく慈悲に満ちた眼差しだったことだろう。 ペテロの胸は張り裂けるばかりだったに違いない。 ペテロは搾り出すようにして言う。 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」 するとイエスは言う 「わたしの小羊を飼いなさい」と。
ところがイエスは再びペテロに聞くのだ。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と。 ペテロは二度も同じ事を言うイエスをいぶかったのかもしれない。 そして同じように答える。 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。 するとイエスはまた言う。 「わたしの羊の世話をしなさい」と。
それでもイエスの問いかけは終わらなかった。 イエスは三度目にまたシモンに問いかけた。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ここでペテロは悲しくなったと聖書にはある。 三度・・・ここでペテロははっと気づいたかもしれない。 少なくとも、ペテロの事を知る読者はその三度という言葉の前に立ち止まる。 ペテロが三度イエスを知らないと言った。その三度と一致するのだ。
今日の主日説教の中でY牧師は語った。 「イエスを三度否定した事はペテロの非常な痛みだった。 その痛みを取り去るためには、そこに向かい合うしかない。イエスはペテロの深い傷に触れ、それを思い起こさせ、それを癒したと。」
イエスはそのように、わたしたちひとりひとりに向かい合う。 決してわたしの罪に対して見て見ぬ振りはしない。 わたしを見据えるのだ。わたしはそのイエスの眼差しから逃れることはできない。 裏切りを認め、それを痛がり、癒されるという、この時のイエスとペテロのできごとを、わたしもまた日々繰り返して生きているのだということ。
イエスはわたしに問いかける。 「わたしを愛しているか」と。 その問いの前に一瞬、一瞬、立たされている。
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<ヨハネによる福音書 21:15−19 >
15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知って
18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
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