たりたの日記
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| 2005年07月17日(日) |
柔和な人々は幸いである |
8時前、地域の草取り作業。 8時45分、同居人と教会へ 9時半、教会学校。オルガンとお話の担当。 10時半、礼拝。司会の担当。 12時過ぎ、聖書を学ぶ会。ヨナ書4章。 1時過ぎ、役員会。英語学校担当としてオブザーバー参加。 4時過ぎ、図書館。 5時過ぎ、回転寿司で夕食。買い物 7時過ぎ、ジムへ風呂のみ。 8時過ぎ、帰宅。
という一日。
教会学校の話。 今日のテーマは「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。 山の上の説教の3回め、 1回目「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」 2回目「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」だった。
わたしは子供の時、柔和というムズカシイ言葉を教会学校で教えてもらった時の事を妙にはっきり記憶している。牧師の奥さんがお話してくれたのだった。 今日の話は、子供たちの記憶に残るだろうか・・・
この「山上の垂訓」と言われるイエスの有名な説教を、子供の時から何度も聞き、また読んできたけれど、それでもまだすっかりは分かっていないという気持ちがする。 柔和という言葉にしても、その言葉の向こうには広がりがある。新約聖書の原典のギリシャ語ではプラウーテ。積極的に自我を引き下げるという意味。控えめ、しかし遠慮ではない。権力を持たないこと。 英語の聖書、Today's English 版では Happy are those who are humble they will recieve what God has promised. と、柔和はhumbleという言葉に訳されている。これは日本語では謙虚、謙遜、卑下といった言葉に置きかえられる。イエスの心にあったもともとの想いはどういうものだったのだろうか。
彼自身、マタイによる福音書11:29でこのように言っている。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
図書館のこと。 「永井荷風集」「永井荷風『つゆのあとさき』作品論集」は再度借りて、新たに「武田泰淳集」「富士日記」上、中、下巻、「私たちはいま、イラクにいます」、これは来週の教会学校の教材用。
「武田泰淳集」を借りたのは、次回の勉ゼミのテキストが、この作家の「もの喰う女」だから。このテキストをわたしはとてもおもしろく読んだ。そして、この作家の他のものを読みたいと思ったし、「もの喰う女」のモデルである彼の奥さんの武田百合子さんが書き記した「富士日記」も読みたくなった。アマゾンで取り寄せようとしたが、古本しかなく、それもけっこう高いので、図書館で借りることができてよかった。
回転寿司屋はとても混んでいたので、待つ間に「富士日記」を読み始めた。 これは本当に日記。どこで駅弁を買ったとか、朝食、昼食、夕食に食べたものや買ったものなどが書かれている。訊ねてきた人、した事、怒った事、思った事、百合子さん、泰淳氏、そして娘の花さんの昭和39年7月からの日常がそこにある。この頃、わたしは8歳。花さんも同じ年恰好だろうか。何のことはない、ある作家の家族の日常が、読んでみるとけっこうおもしろい。 力の抜けたほっとした感じもいいなと思う。 なんだか影響されそうだ。 この日記のはじめに、つらつらとその日やった事を書いたのは、はや、その影響かも。
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