たりたの日記
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| 2004年12月05日(日) |
神の時を生きるということ |
バプテスマのヨハネという人 らくだの毛衣をまとい、縄の帯を締め 荒野で 「「悔い改めよ。天の国は近づいた」 と叫ぶ人。
イザヤ書の中でヨハネの事がこのように預言されている。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、、その道筋をまっすぐにせよ。』」
イエスに先駆けて現れたバプテスマのヨハネの事はこのアドベントの時期に 毎年語られる。
このバプテスマのヨハネから聴き取らなければならないメッセージは、 「時間に対する正しい感覚です。」 と、今日の説教の冒頭で語られ、 説教者が語る「時間」という言葉に、はっとする。
「今の世が永遠に続くというような生き方をしてはいないだろうか。しかし、わたし達は神の時の一部を生きているに過ぎない」 と、また、語られる。
このことは、言葉の表現は違うが、前に語られた「明日がないかのように生きる」ということと、同じ事なのだと思う。 生き方の中心にあること、一つの動かし難い真理を、また別の言葉で、別の角度から伝えられているのだと分かる。
わたし達、人間の命に限りがあることは、誰でも知っている。にもかかわらず、わたし達はそのことを意図的に、あるいは無意識に、考えないようにして生きているのかもしれない。 そうすることで、見ないでおこうとするものは何なのだろう。 そうすることで麻痺させようとしていることは何なのだろう。
荒野の声が『主の道を整え、、その道筋をまっすぐにせよ。』 と呼びかけているのだが、 主の道を整えるということは、その道筋をまっすぐにするとは、具体的にどういう生き方なのだろう。
説教者は、明日を生きるために自分の今をおろそかにしない生き方をすること、そして今、神がわたしといっしょに生きてくださっているという認識を持つこと、どうでも良い事は後回しにし、自分のなすべき事を見極め、自分が何のために生きているのかを知ることが、神の時を生きることだと説く。
さて、わたしの日常はどうだろうか。時に対する正しい感覚に貫かれた日常だろうか。 時に対する正しい感覚は、ちょうど夢から目覚めるような感覚で、はっとして取り戻す。だがうっかりすると、意識はまた眠り込む。また意図的に、その感覚を麻痺させようと、「時」を忘れる事にウツツをぬかす。
それだから、意識は眠ったり起きたりをくり返し、スイッチが入ったり切れたりするその感じにも似ている。
途切れる事のない音のようにいつもひと繋がりの時間の感覚の中で生きることはできないだろうか。
様々に寸断されるわたしの日常の「時」を、なんとか繋ぎ合わせようと、また時に対する正しい感覚を取り戻そうと、一日の終わりにこうしてここに綴っているのかもしれない。
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マタイによる福音書 <3章1−12>
1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、、その道筋をまっすぐにせよ。』」
4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
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