たりたの日記
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2004年11月26日(金) 「千年の愉楽」のカタルシス 

今日は、明日の正津勉ゼミのテキスト、中上健次の「千年の愉楽」の予習として、感想文を書きました。この作品の特徴は、その物語を口答で語るような独特の文体にあるように思います。書き言葉というより、話言葉。短く簡潔な文章ではなく、景色のことから思い出に飛び、さらに心情を語るという具合に、いくつもの文節が句点で繋がれ、長い文章を作っています。言葉は翻訳語のような抽象的な熟語はなく、あくまで語りの言葉。

物語の内容は、かなりセクシャルなもので、姦通あり、殺しあり、強盗ありの凄まじさなのですが、それが巫女のような存在の老婆から語られるからでしょうか、何か宗教的な感じすらただよっています。読むほどに、カタルシスとでも言いたいような気分にひたされました。
感想文はこの作品の文体を模倣して書いてみました。



      「千年の愉楽」のカタルシス 
    

ハナミズキの葉がまだ枝の先についている11月のはじめに、中上健次の「千年の愉楽」を手にし、オリュウノオバの語る物語を、朝に夕に開き、満員の電車の中で押されつつ、また風呂の中で夢見心地になりながら読んでいるうちに、次第に秋は深くなってゆき、ハナミズキの葉もおおかたは地面に落ち、冬がもう迫って来ているのだった。

このところ心に浮かぶのは、物語の主人公の男前の半蔵や、同じように美しく艶やかで薄命な男達のことというよりも、語るオリュウノオバその人のことで、もう老衰し、寝たまま起きることもできない、そのオリュウノオバのことが慕われ、オバの、誰に言うともない、大きなところへ向かって独りごちる祈りのような言葉の数々が、しんと胸のうちに沁みて、何か洗われるような清清しさが残る。オリュウノオバには、何もかも知られているような、なつかしく親しい気持ちがして、オリュウノオバの横たわる枕辺に座って、ずっとオバが語る物語に耳を傾けていたい気にもなる。

路地という人から疎まれる土地を愛し、そこの人間を見守りいとしんできた産婆のオリュウノオバは、路地の女が孕めば、父無し子であっても、阿呆でも五体満足でなくとも、あの世よりこの世に生まれてくるのがいいのだからと、女達を励まし女達の腹に宿る命をひたすら世に送り出してきた。赤ん坊の母親よりも先にその子を腕に抱いたオリュウノオバは、自分こそが生まれてきた子供達の母親であるような気さえしてくるのだった。そうして、路地の人々の生き死を眺め続けて、もう千年も生きてきたような気がしている。

中本の血を引く、早死にしていった男達をオリュウノオバは殊のほか気にかけていたから、年取って動けなくなった今も、そんな男たちのことを活き活きと物語ることができる。男達は美しく、この世のものではないというような気配を放っているも、みなどこか翳りがあり、闇の中に浮かぶような男達だ。女遊びに狂う者、盗人、人殺し、自分で首をくくった者、そんな男達を憐れみながらも、なにもかも赦されているというふうにオリュウノオバはうなずくが、それは世の人が定めたきまりごとや人の道などのおよそ及ばぬ、オバの見上げる「大きなもの」の目を通してみる信心のようなものなのだろう。

このオリュウノオバの何もかもを包むようなおおらかさはどこから来るのか。ユングが言うグレート・マザーのようでもあるが、それよりは日本の風土が長い年月培ってきたひとつの人間の有り様のような気もする。あちらの世界とこちらの世界の間を取り持つ巫女のような、すべての者の母のような者。泡沫のように生まれては消える儚い人の一生を語る語り部がそのような動かぬ視点で語る時、物語はカタルシスを伴う。中上健次はもう失われたかに見える古の物語の癒しのカタチを、今に再現してみせたのではないだろうか。


たりたくみ |MAILHomePage

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