たりたの日記
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| 2004年10月03日(日) |
雨の日曜日、読書会へ行く |
9月からこっち、朗読会に始まり、文学ゼミ、読書会と、文学のお勉強づいている。 そういえば、読んだり書いたりはおおよそ習慣のようにやってきたことではあるけれど、わたしの専攻は文学ではなかったから、まず文学というものを学ぶという場面にあまり遭遇してこなかった。
で、ここへ来て、わたしがひたすらそれを求めたというのでもなく、なんとなく道筋ができてきているのだ。こういう具合に、必要なものはどこか彼方からやってくる。とすれば、これが今のわたしに必要な事であるらしい。きちんと受け止めていこうと思う。
今日は講演会ドットコムというところが主催する、「第5回著者による読書会」に出かける。 あいにくの雨、初めての土地はさらに心細い。目白駅から徒歩5分という目的地の千登世橋教育センターなるものが見当たらずしばし途方に暮れる。もうすでに開始時間を回っているというのに… 幸い前方に交番を見つけ、何とか辿り着く。
講師は前回初めてゼミへも参加させていただいた正津勉氏で、テキストは朗読会で求めた「詩人の愛」。この本で新しく知った詩人や、また詩の向こう側にある真実をたいそう興味深く読んでいたので、読書会で取上げられる詩、また詩人達の話はすこぶるおもしろかった。
とりわけ、深尾須磨子の「呪詛」。 フェミニスト・レズビアン詩人、深尾須磨子の詩を、その本「詩人の愛」で初めて読んだ。そしてこの詩人におおいに興味を持ったのだ。アメリカのフェミニスト・レズビアンの詩や著作にはこれまでも接してきたが、日本の女性の、それも明治時代を生きたレズビアンの作品に接したのは初めてのことだった。今でさえ、その立場を明確にしてそこから作品を書く人は日本ではまだまだ少ないだろうが、明治という時代の中ではどれほど大変な業だったことだろう。
この日記にも何度か書いているメイ・サートンはレズビアンの詩人。後手元にあるのは古いギリシャの詩人サッフォーの詩集。思いつくレズビアン詩人はこの二人しか知らない。他のレズビアン詩人を知りたいという質問をすると、そこに吉原幸子の名前が出てきてはっとする。吉原幸子はわたしの一番好きな女流詩人。若い頃から、彼女の詩からはいろいろともらってきた。言葉が染み込んですでにわたしの血や肉となっているものもある。その詩人がレズビアンという事を知らなかった。が、言われてみれば、女性への深い洞察やマイノリティーの持つしんとした孤独、彼女のまとっているひとつの空気、わたしの愛してきたそういうものが浮かび上がり、そうだったのだと何か納得がいくのだった。
わたしは性的嗜好において自分をレズビアンとは認めないが、女性が女性を愛するということ、また女性が自分自身を含め、女性というものを知ろうと追求する行為に惹かれ、また関心を持ち続けてはいる。そこに何かがあると見当もつけている。 前回のゼミで取上げられたの富岡多恵子にしろ、今日の読書会で取り上げられた詩人達にしろ、出合うべきものと出合っているという手ごたえがあってうれしい。 そうそう、今読んでいる富岡多恵子の「白光」、ここにも、お互いに恋に近い感情を持ったことのある、二人の不思議な女が出てきて、それは興味深いのだ。何か掴めそうで掴みきれないもどかしさがあって、この作家にもっと入り込んで行きたい気分にされる。
ちなみに、読書会で取り上げられた詩は以下の通り。
「みちでバッタリ」 岡真史 「僕はまるでちがって」 黒田三郎 「初恋」 島崎藤村 「レモン哀歌」 高村光太郎 「呪詛」 深尾須磨子 「林檎畑」 金子みすず 「だまして下さい言葉やさしく」 永瀬清子 「あきらめろと云うが」 竹内浩三 「おやすみスプーン」 正津勉
話の最後に、詩は目だけではなく、声に出して、耳で聴くものだと講師が勧めをしていらしたが、それはおおいに同感するところ。 声に出して読んでみようと思う。 歌を繰り返し歌って自分の血肉に混ぜるように、言葉をそのように自分に近づけてみようと思った。
帰りに、池袋のリブロで、続・吉原幸子詩集と、続続・吉原幸子詩集を求める。読書会で紹介され、読みたいと思った永瀬清子氏のエッセイ集「過ぎ去ればなつかしい日々」は絶版で本屋では購入できないらしい。図書館で探してみよう。
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