たりたの日記
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| 2004年07月13日(火) |
徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう |
さて聖書の通読。 昨夜と今朝でマタイによる福音書を読んだ。もう何度も読んだ場所ではあるが、通して読むことはあまりない。今回は読みながら、やたらと先日見た映画「パッション」のシーンが浮かんでくる。あの映画については、新しく付け加えられた事は何もないと書いたが、はっきりと頭で描く映像に変化が生じていることは、あの映画の影響が確かにあるということだ。
特にイエスを売り渡したイスカリオテのユダが、その事を悔い、イエスと引き換えにした銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだという箇所。わたしはこれまで、ユダのこの状況を自分の中では映像化していなかったのだろう。そこへ持ってきて、映画「パッション」のユダの描写はかなり脚色もあったが、ユダが心理的に追い詰められる場面が非常に印象的だったと思い返す。
悪魔に捕えられ、虚無の極地へひきずり込まれたユダ。しかし、そのユダの裏切りは我々一人一人と決して無縁ではない。そしてユダの裏切りさえも、イエスの贖いからもれてはいないのだと思った。神学的にどうかは知らないが… そういえば、バルトの著書に「イスカリオテのユダ」というのがあった。高校生の時に読もうとした時は難しくて挫折したが、今だったら読めるだろうか。見つけてみよう。
そう、パッションという映画は、人間がどれほどイエスを憎み、また裏切り、痛めつけたかという映画だ。その中で最後までイエスの元を去らなかったのは、イエスの母マリアやマグラダのマリアといった女性の弟子達。甦ったイエスが初めて姿を現したのも、この女性達の前だった。
女達もイエスを愛したが、イエスもこの女達を愛した。その代表のように言われるマグラダのマリアは人々が石で撃ち殺しても良いと律法に定められているような罪の女。
この福音書を書いたマタイ自身が、皆から蔑まれる徴税人だったからか、 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜならヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」(マタイ21ー31) という箇所にハイライトが引かれているように、記述に力が入っているような気がした。
一方で、律法に忠実なファイサイ派や律法学者に対してイエスはあくまでも手厳しい。今で言うなら世の中の権威ある人、成功している人、地位の高い人間 になるのだろうか。自分達を罪人と認めようとはしない「えらい」人達に対して。
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