たりたの日記
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2004年01月15日(木) 日がな一日PCの前にいた木曜日

今日木曜日はジムへも行かず、ほんとうに朝から夕方まで、ずっと座りっぱなしでパソコンの前に座っていました。

今日は父のことについて書いたエッセイのリライトがまず、終わりました。
書く作業は何にしろ好きです。疲れることもありません。ここまではよかったのです。

ところが、その他に何をどのようにまとめていくか構成を考えながら、今までに書いたものをすべて読んでいくという作業をしました。これがなかなかしんどいのですね。何というか自分のことばに食傷してしまう感じなのです。

また過去に書いたものというのは、どうしても「今」の気分とは微妙にずれています。そのずれにまた疲れてしまうのかもしれません。本を作るとはこういうことだったのか、ああ、ほんとに初心者なのだとつくづく思います。

わたしにとって読むという作業は、自分のものではないエネルギーを取り込む作業です。自分と限りなく近い世界であっても、自分の持ち物ではないから、そこにおいしい水をごくごくと飲むような気持ちよさがあるのです。ところが、本をまとめるという作業は、なにしろ自分の書いたものを読まなければなりません。それもざっとではなく、丁寧に。
疲れます・・・


ちょっと気分をリフレッシュしなければと、他の方のサイトへ行って、自分のものではない新鮮な言葉をごくごく飲んだりしたのです。
おいしかった・・・
そして自分のものではないことばに、ああいうのがいいなあ・・・などと間違ったうらやみを持ちます。
そう、それは間違っているのです。好きでも嫌いでも、自分の持ち物で表現しなくてはならないのですから、どれほど真実に自分かということが問われるわけですから。

人のことばにリフレッシュされる・・・
と、いうことは、わたしが食傷してしまう自分のことばも、わたしではない人にとっては時においしいこともあるのでしょう。
そう考えれば、この作業にもやる意味が見出せるというものです。

それにしてもこれは、自分に向かいあう貴重なトレーニングですね。
いつかわたしは鏡が好きだったなんて書いたこと、ありましたけれど、
あれは間違いかもしれません。自分の姿をじいっと見るなんて脂汗もんです。
自分の言葉って姿形よりも自分を写していますからね。鏡のようなもんです。

ちょっとマイナーなトーンですね。たまにはいいですよね。いつも元気よすぎる傾向がありますから。

さて、久し振りに自宅のお風呂に浸かりながら、好きな佐野洋子のエッセイを読むことにしましょう。

そうそう、昨日、満員電車の中で佐野洋子のエッセイ、もう何度も読んでいる
「がんばりません」を読んでいて、またまた激しく吹き出しそうになってしまい、笑わないでいるのがたいそう苦しかったです。3回目だから大丈夫だろうと思って読み始めたのですが、やっぱしだめでした。
あのくらいおもしろい文章書く佐野さんだって、きっと自分の書いたものには食傷するんだろうな。





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