たりたの日記
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2003年02月05日(水) メッセージをありがとう!

ひろ〜いはずのこの世の中が電車の中よりも近くに感じることがある。あぁ、その反対に狭い満員電車の中は果てしなく遠い。
いえ、わたしが言っているのは人と人との距離のこと。空間的にはずいぶんと遠いところにいる(恐らく)見知らぬあなたがいきなりわたしにメッセージを下さったりする。そのストレートな繋がり方をわたしは好きです。しかもそれを個人宛てのメールではなく、公開日記の中で送るという方法もなかなかです。ですからわたしもこの公開日記の中であなたにお返事いたしましょう。
演技やヴォイトレのことであくせくしているらしいわたしに送ってくださった「熱湯のような熱いメッセージ」受け止めました。ご紹介くださった「舞台と映像の音声訓練」 〜せりふ・朗読のための実験〜読んでみます。



ネットの海の中で見知らぬ人が突然に自分の日常にかかわってくるというおもしろさをこれまでに何度となく体験してきた。今日、たまたまこの日記の登録状況をチェックしてみると新しい方が登録してくださっていてその方の日記のタイトルがどうやら私に宛てたメッセージであるらしいことが分り、その方の日記を読みにでかけた。必要な情報はいつもどこからかやってくるというのが私の持論だがそのようなタイムリーさをそのメッセージの中に感じた。

3年ほど前にルネッサンス時代の歌を恐ろしく美しく歌う声楽家(波多野睦美)さんの声に惚れ込み、あのような声がどうしたら出せるのだろうとそれだけを知りたくてレッスンに通った。その時に言われたことを実は今日も思い出していたのだった。それは、人は自分本来の嘘偽りない声と違う声をいつの間にか作ってしまう。しかしそれはその人間の本質とは異なる声だからどこか力に欠ける。作った声を元々の声に戻す作業が必要になるということ。波多野さんのレッスンではゲーとがガーとかこの上なくえぐいと思われるような声を出させられた。そういう声を出せない自分がそこにあって私がいかに自分を解放させていないかということも知らされた。

本当に演じるためには、かえって自分自身に戻らなければならないと今日はそんなことを一日考えていた。というのもわたし自身が非常に芝居がかった日常を送っていると感じるからだ。いろんな場面でこう見せたい自分を頭に描き、そういう自分を演じ、場所と場面で使いわける、演じ分ける。当然声も嘘偽りのないわたしの声ではなくどこかで作っている。そういう身に付いてしまった悪習がかえって演技をスポイルさせていると思い当たったのだ。文章を書くことで、それもかなり本音で書く事でわたしは何も演じていない自分自身を出す場を見出したが、日常生活の中ではそうではない。ここで言葉を吐き出すように生々しいわたし自身を生きてはいない。日常においても嘘偽りのないわたしを生きる時が来ているのだろう。




たりたくみ |MAILHomePage

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