たりたの日記
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| 2003年01月26日(日) |
悪霊を追い出すーイエスの言葉の強さ |
今日の主日説教の題は「権威ある教え」テキストはマルコ1章21〜28 「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」というタイトルのついた箇所だった。 私は説教のメモを取りつつ聞いているが、すべてをメモできるわけではないから、当然、私の耳に聞こえてきて受け止めた言葉だけが書きとめられていく。だからここで、メッセージの要約やレポートは書くことはできない。けれども私自身の日記として、また読んでくださる方がたと分かち合うために、ここのそのメモを残しておくことにしよう。 けっして私ひとりに語られる言葉ではないのに、まるで見透かされていたかのように私の今を捉えた言葉が語られていた。
*イエスの言葉には強さがある。それはその言葉が真実に満ちているから。 イザヤ書55章11「そのように、わたしの口からでるわたしの言葉も、む なしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、 わたしが与えた使命を必ず果たす。」と示されているように。
*「一行」とは、イエスの呼びかけに付いていった弟子たち、エクレシア、 かれた者たちのこと。
*人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者と してお教えになったからである(1:22)とあるが、マルコはその教えの 内容は記していない。しかし、マタイによる福音書の記述からそれを知るこ とができる。それは「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのも のである。」で始まる5章の山上の説教。
*イエスの教えは人々を束縛から解放する教え。人間を自由にする神の宣言。 神の主権のもとではものごとがどのようになるのかそこから見るというこ と。
*イエスは汚れた霊をその人から追い出したが、汚れた霊とは、その人を囚 え、そこに閉じ込めていた力。今日でも我々は日常的にこの悪の霊に捕えら れる。しかしわたしたちはイエスによって悪の霊の力に打ち勝って生きるこ とができる。
*イエスから知られているもの、愛されているものとして自分を受け入れるこ と、自分に向けられている神の愛を受け止めていくこと。
マルコ1章21〜28 ◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす 1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
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