たりたの日記
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今日はミュージカルの練習日だった。 傍から見て私の演じる「たけるのママ」の役がどのようであったかは分らないが、今日は優しく明るくまた芯の強いママの内に通奏低音のように鳴っている深い孤独と悲しみに共感することができていたように思う。日常の生活の中に身を置きながらもなにかはかなげに彼岸を見つめているその役柄の眼差しが前よりもはっきりと見える気がした。きっとわたしが「独り」を取り戻したからなのだろう。
一昨日の日記「タペストリー」の中で、私は「独り、徹頭徹尾」という言葉を書き、一度はそれをアップしたものの後で消してしまった。実はこの言葉こそあのタペストリーと題した文章の中で書いておきたかった言葉だったのだが、それを消してしまったのは、友人や家族といった私の愛する人たちを不用意に傷つけてしまうのではないかと、そんな心配を感じたからだった。しかしこの「独り」というのは、決してセンチメンタルなものでも、また他への甘えや非難めいたものでもない。それは私の中心であり、寄って立つところ。ふるさとともいえる場所なのだ。
今日、電車の中で開いていた高橋たか子の「この晩年という時」という本の中のひとつの文章が心に染みとおっていくようだった。作家が親も夫もありながら、「「風の音だけ」が私のまわりを吹きすぎていく虚無の中に自分が生きてき、生きている、いきていくだろう」、という思いがあり、そのような小説を書いてきたと、そして「地上的な事象について虚無なればこそ、そんな私へ神が全的に入ってこられる」と。
同様に練習会場のロビーで目にした 「現代において恋をするとは個と孤を越えられない自分を痛切に自覚することかもしれない」 という文章が心に響き、急ぎノートに書きとめた。企画展示「恋うたの現在ー平成百人一首」の中に見つけた歌人伊藤一彦氏の文章だった。この歌人の歌を読んでみたいと思う。また「個と孤を越えられない自分」というところから言葉を紡いでみたいと思う。
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