たりたの日記
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2002年12月22日(日) ろうそくが4本灯る

礼拝堂のアドベントクランツに4本目のろうそくが灯った。クリスマスの始まり。教会ではクリスマス礼拝が行われた。オルガンにトローンボーンが2台加わり、クリスマスらしい華やいだ感じになる。また教会学校の生徒たちの献歌
「世界ではじめのクリスマス」は子どもたちの純粋な気持ちが出ていて「心が洗われるようだった」という感想もいただくほどクリスマスにふさわしい捧げ物だった。

礼拝の中ではTさんとYさんの洗礼式が行われた。3年前に教会に飛び込むようにしてやってきたTさん、たまたま私もバイブルクラスに参加していた時だった。心に抱えきれないほどの苦しみを抱えていたのだろう、バイブルクラスの間中彼女は泣いていた。「礼拝堂で讃美歌を歌いますか?」と誘って彼女としばらく讃美歌を歌ったことを思い出す。Tさんはバイオリンを弾くというので何度か礼拝の中でいっしょにバイオリンの二重奏もした。また聖書の勉強会ではいろんなことを語りあった。あれから3年。彼女は一歩一歩歩みを進め、また道が開かれ、表情も明るく生き生きとなっていった。彼女の歩みを知っているだけに洗礼式は感慨深かった。

Tさんの受洗を見守りながら、同じころ隣の市にある教会でやはり洗礼を受けているMさんのことを思っていた。6月に千葉の知的障害者の施設に見学に行った際、それまで心に病を持つ人たちが集うサイトでおしゃべりしていたMさんに初めて会った。教会に行きたいと言うので私の行っている教会と彼女の家の近くにある同じ教派の教会を紹介した。彼女は家からすぐ近くにあるU教会に通うようになり、良い出会いや学びがあったようだった。サイトの掲示板での書き込みでは揺れ動きながらも以前のような行き場のない悩みを抱えた彼女が次第に登場しなくなり、喜びや感謝に満ちた書き込みが増えてきた。Mさんから洗礼式に出席して欲しいと言われていたが私は自分の教会があるので出席できず申し訳なかったが、共通の友人のWさんが洗礼式とその後のクリスマス祝会に参加してくれたようでMさんから喜びのメールが届いていた。

この洗礼式は私にとって本当に意味深いもので、書き残さないではおられない気持ちだった。人の上に働く神の業を目の当たりにしたと感じていたからだ。深い喜びと感謝の気持ちが書きながら湧いてきた。

神の意思や計画を私たちは知ることができない。けれどどんな出会いにもそこには必然が神の配慮と意思とが働いていると私は信じている。それは単に偶然なめぐり合わせではないと。人は人の中で神の意思をも知っていくのだと。
愚かな私たちはそういう配慮には気づかず、悲しんだり、恨みに思ったり、誤解したりを繰り返しているが、そういう愚かな人と人とのかかわりのただ中に神は確かに介在したもう。


たりたくみ |MAILHomePage

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