たりたの日記
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2002年12月08日(日) クランツにろうそくが2つ灯る

金曜日にひいた風邪の成り行きが心配だったが、昨夜のサウナと硫黄風呂の荒療治が効きいたのか目覚めてみるとずいぶん良くなっている感じがした。もう喉も痛くはない。教会も午後からのミュージカルの練習も穴を開けずにすみそうだ。

いつものヨーグルトとフルーツの朝食に今日はトーストをプラスして腹ごしらえをし、夫と共に教会へ。子ども達が集まるまでの時間、オルガンで前奏曲を何曲か弾く。今日はどういうわけだか子ども達の出席が少なかった。でも英語学校から教会学校へ来るようになったKくんとNちゃんは、ご両親もいっしょに出席されていてとてもうれしい。牧師先生、教会学校の校長のKさん、夫もそこにいるのでご父兄も含め6人の大人と6人の子どもの前で準備してきたバプテスマのヨハネの話をする。子どもたちはずっと目をこちらに向けて聞いてくれていた。「熱演だったね、よかったよ」と夫がコメントをくれる。そうなのだ、子どもの前で話をする時、かなりテンションが上がっている。この日の午後のミュージカルの練習では全体にテンションが低いと言われたが、その違いはどこから来るのだろう。教会学校の話は原稿は書いたものの、暗記するわけでも、読むわけでもないからほとんどアドリブともいうべきものだ。一方芝居は何度も台詞を読み、すっかり暗記しているのに、まだ恐れや躊躇から解放されていない。

待降節第2主日の礼拝。S牧師による説教は「主を待つ心」、テキストはマルコによる福音書1:1−8、バプテスマのヨハネの箇所。先週の日曜日から新しい教会暦が始まったが、今年の聖書日課はマルコによる福音書で、この1年間マルコによる福音書を読み、それをテキストにした説教が語られることになるということだった。マタイ、ルカ、ヨハネ、それぞれの福音書の記者によって切り口や視点に違いがありそれぞれのバックグラウンドやパーソナリティーが反映されていて興味深いが、私自身はマルコによる福音書が一番好きだと感じているのでこの1年マルコによる福音書を読み、また聞いていけることはうれしい。

今日語られた話の中で印象深かったのは、他の福音書ではイエスの誕生から始まっているが、マルコはあえてイエスの先駆者であった洗礼者ヨハネを福音書の冒頭に持ってきている、それはマルコがまず洗礼者ヨハネを描くことで福音の根本を語ろうとしたからだ、ということだった。確かに荒野で「悔い改めよ」と叫ぶヨハネの姿を思い浮かべる時、何か襟元を正さずにはいられないようなきりりとひきしまる感覚を覚える。S牧師はまたこう語られた。洗礼を受ければそれで良いというのではない。罪は一度赦して頂いたらそれで終わりというわけではない。私たちは日々、古いアダムに死んでいく、私たちは日々罪を悔い改めていくのでなければならない。主は整えられていない高慢な道を通っては来られない、狭くて固い道を通ってはこられないと。

良く耕され、石が取り除かれ、整えられた道。また広く、弾力のある足の裏に豊かな大地の恵みを感じさせるような道。そんなまっすぐな道が浮かんでくる。心の中にそんな道を一本すっきりと通したい。主を待つ準備の時。
アドベントクランツにはろうそくが2本灯った。


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マルコ1章1〜8
◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


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