たりたの日記
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2002年10月17日(木) 草は枯れ、花は散る

昨夜の教理クラスから、「主の祈り」の学びが始まった。
「主の祈り」とはイエス自らが「このように祈りなさい」と
わたしたちに示した祈りでいわば究極の祈りだ。
今日は「天に在します我らの父よ」という呼びかけと
第一の祈り「御名があがめられますように」を学ぶ。

この第一の祈りは神御自身の存在が聖とされるようにという意味がある。
神の御名は本来、それ自らが聖であるのに私たちがそれを汚してしまう。
それで神を聖ならざるものから区別し、聖いものとすることができるようにと祈るのだ教えられる。

きっとこのことについてはこれまでのも何度となく聞き、また読んできたのだろうと思う。
けれども耳は聞いても心が開かれていなかったのだろう。
まるで初めて聞くような新しさがあった。

神を聖いものとするためには、わたし自身の有り様が聖いかどうかそこが問はれているという。
わたしは聖いか、聖くない。
様々な欺瞞や混沌の中でもがいている。
水の上には光が見えるのに、そこへと浮上するかと思えば
また光の射さない水の底に戻っている。
明日は枯れる草を、明日には散る花を
追い求めている自分の姿が見える。
そして
そんな私をごらんになっている神の眼差しも感じている。
だから呼びかけてはいるのだ
「こういうわたしは なんなのですか!」と


以前にも書いたような気がするが、
幼い頃、教会学校でもらった小さなカードに書かれた聖書の言葉に
衝撃を受けた記憶がある。
昨日の学びの中でその箇所がふいに目の前に立ち昇り、何か呼び覚まされる感覚があった。


ペテロの手紙1 1−22〜25

あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。

「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変ることがない。」

これこそ、あなたに福音として告げ知らされた言葉なのです。







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