たりたの日記
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昨日の体育の日、連れ合いは仕事が入っていたので、わたしは家事を一通り済ませるとジムへ自転車を飛ばした。月曜日にはいつもわたしをジムへとそそのかした友人のFといっしょになる。普段ならわたしは夕方に仕事が入っているから、Fとはプールやサウナで話すくらいだが、今日は祝日で仕事もないから運動の後は近くのイタリアレストランでパスタを食べながら話をした。
「育児っていうのは修行だったわね」
彼女も私も育児が難なくこなせるというタイプではない。子どもを育てていくことに非常なストレスと重過ぎる責任感と、そのうえ面倒な理想まで抱えていたから、日々はそれだけでいっぱい、いっぱいだった。わたしたちは「子どもの本を楽しむ会」という児童文学のサークル活動で知り合い、文庫活動や語りなどをしてきた仲間だ。その会は保育も当番でしていたから子どもぐるみでの繋がりがあった。またそのサークルの仲間の多くは裸足で野生児のように過ごす幼稚園に理想の姿を求めて、かなり遠くからでも、親が様々な場面で借り出されることがあっても、そこへ通わせていた。わたしは父母会や学習会には下の子を背中に負ぶってその幼稚園まで一時間ほど自転車をこいで行くこともあった。確かにあの時期は親というものになるための、子どもを育てていくための修行だった。
「でも、死ぬまでにもうひとつ修行があるわね」
この話題は何度となく出てくるのだが、すっかり子どもたちが独立してもう親としての役割がなくなった時、今までの暮らしを離れてどこかの開発途上国で ボランティア活動をしている夢を語る。奉仕の精神に満ちてというよりはまだ十分ではない「修行」をしなくてはと思っているとFは言うが、わたしもその気持ちに通じるものがある。ただわたしの場合は気分としては悠々自適にのんびりと老後を過ごしたいと思っているが、決してそうは行かないだろう、自分の意思とはまた違ったところで「修行」へと送り出されるのだろうとそんな気がしているのだ。 将来のことは誰も分らない。ひょっとすると10年後は遠い国のあちらとこちらでそれぞれに最後の修行に励んでいるのかもしれない。
「今はね、それができるように体力つけてるんだわ」
お互いパートの仕事でジムの費用は捻出しているものの、夫の働きの下にあってのジム通い。フルタイムで働いている人たちからすればずいぶん暢気に運動にうつつをぬかしていることになる。でも、それが将来へのステップだと考えれば、今は準備の時。学生が勉強したり、運動したりするのと同じだと自分たちを納得させる。
「あらっ、あなたも」
ロッカールームから出てきた我々は申し合わせたように同じような黒いブーツカットのジーンズをぴったりとはいていた。こういうジーンズ姿なんてお互い見たことなかった。しかし、ウエストのサイズは辛うじて同じものの、彼女のはさらに細いタイプ。わたしは負けている。半年わたしよりジム通いが長いからしかたないか。気合の入れ方も違うかなあ。
「この前、いっしょに映った昔の写真見たら、お互い10年前とずいぶん違ってたわよ。」
「何、そんなに老けた?」
「ううん、昔の写真の方が老けてるの」
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