非日記
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| 2008年07月05日(土) |
ネタがない時はこれ。 |
「血液型○いはあんま信じません」と言ったところ、「えー?私、血液型○いだけは信じてるよ!」と言われ、へえと面白く思った事があった。私の感覚から行くと、実際にどういう時にどういう選択をするかを逐一あげていっての性格分類的ものの方が実際と遥かに近似になる気がする。例えば、「血液型に疫学的な傾向だとか軽微な特徴なんかがあって(細菌感染に強いとか)、その特徴が実際の行動選択の幅を左右する事により(感染率を上げそうな行動を忌避するかお構いなしかとか)、全体的な傾向性をもつ(慎重か大雑把かとか)」とか言われたら「そらそうかもな」と思うが、でもそれはあまりに大雑把過ぎる気もする上、その傾向は実際の性格分析の中により細かく現れてくる、当然含まれているはずだろう。
顔の造作や発声の仕方、仕草や癖に関しても、その生まれと育ち、及び経験体験とその認識と解釈は影響するだろう。例えば似た容貌ならば古くさかのぼっていけば遠く血縁関係があると疑われなくもないとする。血縁関係があったなら、その時点で親からある程度同じ教育を受け、同じような経験をし、似たような価値観を育んだとも考えられる。それは代を重ね拡散しながら、その都度家族内で共有され受け継がれたとも考えられる。そうだとすれば、容貌の近似から性格の近似性を見、そこから選択の共通性をはかり、その先に一生の傾向、その確率性を垣間見ることも不可能ではないかもしれないだろ。 もし容貌に影響を与える遺伝子に性格の傾向を決定する因子も乗っているとすれば(例えばドーパミンを作りやすいとか、セロトニンの受容体が少ないとか)、外見的特長から性格を類推するのは「科学的」だという結論になる。
動物間での伴侶選択はよく外見的特長、身体特徴によって選ばれる。羽色が美しいから、声が美しいから、匂いが強いからなんだというのか。だがもしかすると彼らは、それが子孫の生存確率に強く影響すると本能的に考えている、知っているのかもしれない。だとすれば、「人は外見的特徴ではわからない」という倫理道徳は生物的本能に背いた結論だ。そしてそれはかつての弱者、普通ならば選ばれなかった者が知能を持ったがゆえに見つけ出した抜け道ではないと何故言える。ただ、この話は、生物が常に自身の何かの永続を指向すると仮定しての話になるだろう。生物の究極の目的は種の保存にあるを否定するドーキンスの機械論に対する否定は既にあったよな、確か。生物は遺伝子の保存ために生きるのではないと。 私は進化論という考え方に疑念があるねんよ。進化論というのは、ある一つの目的、例えば自らの子孫がより確実に生き残っていく可能性に対して優位になるように変化、すなわち進歩していくという発想だろタブン。生物は中学生までしかやってないし、私はよくわかってないんだろうが。「生命には本質的な目的があり、その達成のために進歩し続ける」等というこれは、あまりにも一神教的な発想だと思われてならない。ダーウィンは敬虔なクリスチャンだったんじゃないかと疑う。「生命は目的をもって生まれ、その達成に向けて進歩し続ける」などというのは。
私が素直に考えるなら、こう考えるよ。生き延びるために進歩したのではない。変化したもののうち、たまたま当時の環境により適していたものがより多数生き延びた。環境の変化に応じて生き延びるために目的をもって試行錯誤して変化していったのではなく、環境が変化する事によって安定性が崩れ、その結果異常が多発した。生き延びるために適合したのではなく、結果的に適合していたやつが生き延びただけであり、優れた種が生き延びたのではなく、生き延びた種を優れていたと価値判断しているだけではないのか。 ダーウィンとか思い悩んだんじゃないかと思うよ。世界の創生において、全知全能である神によって作られた完全な存在の被造物が何故変化していくのか。あってはならない事が起きている。とすれば、それはあってはならない事ではなく、当然の事でなければならない。変化を是とする事が予め創造主によって意図されていたはずだ。みたいな直線的な発想が無ければ、循環的発想をしていては出てきそうになく思われる。 昔同じクラスに熱心なクリスチャンがいて、神様は全知全能で〜と煩かったので「全知全能の神が創造したものが変化していくのならば、時間が進むほどに神の意図から外れていくのではないか?」と意地悪く考えたわけよ。変化した結果が常に肯定され、望まれた結果となる「進化」とか「進歩」という概念はこれをクリアするねん。 別に文句は言わない。生は死より遥かに優る疑いない価値を持ち、有は無より問題なく尊いという感覚は現在の倫理道徳の根幹にある。 だのに米国で教会の教えに反すると進化論が禁止されてる州なんかがあるのが面白く思われる。
外見的特徴でモテるモテないの話だけどな、なんだったかな鳥だったか、その特徴が極端に行き過ぎて生きていくことが困難になり自然絶滅したのがいただろう。「翼が大きいほどいい」で雌が選択的により翼の大きい雄と番になっていった結果、やがて子孫は自力で動かせないほど翼が大きくなりすぎ…、とかいう種がいた気がする。これは結果的に「成功」したとはいえないが、しかしその社会内では絶滅の最後まで栄光に冠したわけだろう。翼が大きいほど常に「勝ち組」ではあったわけだ。
ともかく、喩えばこういう説がある。一般的に冬生まれは強く、夏生まれは弱い。なぜならば、身体的により辛くなってくる臨月を母親が黙って座ってても辛い盛夏に過ごしたか、じっとして過ごしやすい冬期に過ごしたかによって苛立ち度が違い、体内にいた胎児に対する心境が違う事による…とか言われたらそれもそうかもなって気もするだろう。気温や気圧の変化、季節の過ごしやすさ、祭事の頻度なんかを考えていったら、「だから季節に区切って性格分析を考える星座○いにも根拠はある、少なくとも血液型と同程度は!」と言えなくもないだろ。そして性格に傾向があるなら、「ただめぐり合わせによる」のではなく、個々人の思考の癖、感情の程度、感情の表現の仕方などが各々の人生に流れを形作っていくのだと信じるのならば、性格の性根に影響を与えたものは人生全般に生涯影響すると言えるだろう。
○いを信じる根拠にはこういった風な思考の流れがあるのではないかと漠然と思っていたので、「他の○いは信じないが血液型だけは信じる」というのが物凄く奇妙に思えたのよ。上記のような流れによるなら、血液型に信憑性を感じるのと同じ理由で他の○いにもある程度の信憑性を感じてもおかしくないのに、血液型だけを別個に括るという事は、何か他の根拠をもって信じているという事になる(全く根拠のない確信、私は個人的にそれを信仰と呼ぶけれど、でないならば)。それは一体なんだろう?私の思いつかない理屈が?と興味が湧いたんだけど、業務中だったので詳しく聞けずじまいになった。
私は「あんま信じない」と言いながら、面白がるほうだ。散々チェックして遊び倒した後、放棄する。血液型が信用ならんとヒシヒシ感じるのは自分が必ずA型かAB型を疑われるからと、激しくA型っぽいB型やすごくB型っぽいO型と長く付き合ったからだ。 ○いに意味があるのは、本来なら色々な局面において長〜く付き合って次第に見えてくる経験則に基づいた性格、人間性の判断を、「相手の情報がほぼゼロの状態からいきなりド真ん中をブチ当てよう」というところにあるのだと思う。ぱっと見A型で軽く付き合っているうちはどう考えてもA型っぽいやつの真の姿なんてどうでもいい。たとえ現実はB型であっても、「こういう場面での選択傾向はA型ど真ん中に等しい」という事だけ判っていれば、その方が実用的だと思われるよ。
よく生涯の九割九分を善人として過ごしたやつが残りの一分で悪い事をすると「本当は悪いやつだった」の汚名を着るが、よーく考えてみて、生涯の九割九分を悪人として過ごしたやつが残りの一分で善人っぽい事をしたとして「本当はいいやつだった」になるか否か。この人物を分析して結局「善人か悪人か、どちらだったのか?」と結論を出そうとしても難しいと思う。「本当はいいやつだ」という結論も「本当は悪いやつだ」という結論もどっちでもどうでもいい事っぽい。 この「本当は」というのは意外性を示していると思われるが、感情論的な感動度を度外視すれば、大抵重要なのは意外な場面などではなく「より高い確率で頻出する殆どの場合はどうか」の方じゃないのか。で、それを懸案するならば、○いもそうだが、「真実の姿」の価値はいかほどのものかと疑われるわけだ。 真実ってのはなんとなく外国語の翻訳っぽい匂いがする。背景にある種の価値観を感じるねん。
…私は「それが意外」かどうかあんまわからない方だし。それで真実の価値に対する疑いがはれないのかもしれん。他の人と比べて変わってるかどうかは少しはわかるが(物知らずが極まってわからない事も多々ある。不安に駆られて「これはおかしいのかどうなんだ?私はおかしいような気がするんだけど気のせいかしら?」と人に聞きまくったりする)、普段のその人と比較して意外かどうかはあんまり。まずその人の「普段」なんてよくわからんよ。
ちっさいときは個人に対して色々意外に感じたりする事もあったような気もしないでもない。J子なんか私には意外性の塊だった。「オカンはこういう人間なんだ。これこれこういう人間だからこれこれこういう事を言うんだろう」と何度も信じながら、その度に「そうではなかったのではないか」と裏切られてきた。モグラ叩きのように確信を打ち砕かれているうちに(自分で確信して自分で打ち砕いてきた)、自分の確信を信じなくなり、判断と解釈の全てを保留するようになってきた。結論は出してみる。しかしそれは全て仮説に過ぎない。それで脳内に学会が打ち立てられた。手打ちだ。私の脳内で中世どころか古代にまでさかのぼる最古の歴史をもった権威ある学会。飽きもせずJ子についてばかり論争しながら、「他者とは何か?人間とは?」という重要課題もここにおいてついでになされ、議会もJ子学会の重鎮の見解を無視することはできない脳内シンクタンクなの。近代の全てはそこから始まった。
私が思うに、真実の姿ってのは人間の限界まで全力で客観視した場合の姿(視点見地観点)であって、すると客観である以上、真実には価値の高低や善悪は適用されないわけよ。私はそう思う。つまり判断の基準はそこには失われてしまうねん。「それって意味があるわけ?」とも思う。 そこで私が考えるに、「真実の姿」と言うのは「その人はこういう人間である」と自分が信じる姿か、もしくは「その人はこういう人間である」と自分が信じているがゆえに見落としてる観点の事だ。これならば真実には意味がある。真実を知りたいと思ったり、真実を知る意味もあるし、その効用もあると思われるよ。
ついでに、自分は、たとえ本当はB型の人間を「本当はA型だった」とたばかられたら、あっという間に「本当はA型っぽいところ」を多々発見できる才能に満ち溢れているんじゃないかと思ってる。それどころか、典型的なB型特長をそのままで色々こじつけて典型的なA型っぽさに解釈しなおす事すらお茶の子さいさいである。こうやって日々、物事の多面的な見方、解釈の多様性に挑戦してるわけよ。
個人的に○いの面白いところは、数種類を一ニ冊眺めただけで、世の中の人間の思考感情偏向パターンの殆どを大雑把に分類して網羅するところだと個人的に思ってる。あの中に全く出てこないタイプが「奇人変人」ってやつだが、だが奇人と言えどもナニガシかは引っかかってくるところがあると思うけどね。ともかくね、○いの本を何冊かざっと見て御覧なさいよ。一見短所をどう捉えれれば長所と見られるのか、長所における短所の発現はどういったものかの例が呆れるほど沢山見られる。あらゆる悩みは一切の虚無と化すよ。人間として思いつく限りの欠点を網羅しながら、常に「だが人として間違ってはいない」と肯定的解釈に挑戦するその勇姿。人類愛に満ち溢れている。これほどに地球上の殆ど全ての種類の人間を網羅しようと試みながら、しかもその全てを全人的に肯定しようという気概に満ち溢れた文献類は他にはないのではなかろうか。固定観念に囚われて息苦しくなったら○いの本を読むに限る、とすら思う。そこには人類が悩み苦しみ妬み僻み憎しみあい罵りあいながら闇の中を手探りするようにして積み重ねてきたもの、一万二千年を生きた賢者の叡智、そのエキスが絞りつくされているかのよう。私はいつもここに、自身と異なる他者を許し自らをも許そう、それはできるはずだという過激で一途な理想の追求、人間愛の一つの到達点を見る。 で、 これがしかも宗教と一線を画すところは、常に俗世にどっぷり足をつけた状態でってところだ。悟りを強要しないが、この思想の背景には悟りが満ちてはいないか。発想はあるがままを生きる、森田療法的とすら思う。
大体アレだ。私は精神分析は○いに似てると思っている。「ちょっと臨床の本を五六十冊斜め読みしてる人間に容易に言い当てられてるようじゃ、本職の精神科医には一発だろうが。一日一日を現実に生きてきたおまえだけの人生だろう。そんなに簡単に、赤の他人に分析されてしまいそうな人生で、教科書で実例になるような人生で、おまえは悔しくないのか!?」と、無闇に頭に血が上ったりする事もある。 大体なんでも分類するのは嫌いじゃない。分析するのも解釈するのも薀蓄もコジツケも好きだ。でも「それを最重要視すべきではない」とも思ってる。こういう具合で、私は世の様々な○いや分析に親しみ愉しみながら、敵対心や対抗意識を燃やし、自ら近づきながら牽制を怠らないるわけだ。
なんでこう長くなったのか謎だな。 さらりとここへ持ってきたかったわけ。B型とA型の取扱説明書みたいなのが売れてるだろ。何故O型やAB型は無いのだろうな、寂しいじゃないか、と。(聞くところによればそのうち出るらしい。どうせろくな事はかかれてないだろうが楽しみだ)
何故B型の血液型に関する本ばかりあるのかといえば、これが一番売れるかららしい。AB0式全血液型の中でB型がもっとも血液型を気にするのだそうだ。全種類の血液型の本を出版しても、B型を取り扱った本の売れ行きだけは他者を引き離して抜きん出るらしい。 本当か。
ひょっとするとアレかもしれないぞ。 他の血液型の人間が常に「やっぱりね」的に強烈にB型を意識するがゆえに、B型は自身の血液型を忘れる事ができないのかもしれない。自分自身と血液型を分けて考える事が困難な社会的現状に身を置いているのかもよ。もし血液型○いの信憑性を疑うのなら、B型は常に「やっぱりB型なんだ」等と言ってくる周囲の人間を常に見下し下等な人種よと軽蔑しながら生きなければならなくなるだろ。その批難や尊敬、特別視をそれなりに軽く受け流しながら生きるには、ある程度その相手の判断や結論、言分に一面的にでも合理性があると認めるしかない。少なくとも、「多くの場合においてB型はこのように捉えられている」という現実を受け入れる必要に迫られるだろう。 私が予測するには、B型がこれほど色々言われるのは統計的にA型が多い日本だからではないかって気がするよ。それと日本の社会が要求する応答の仕方において、俗に「B型的」と言われる性質が相反する場面が多いからじゃないかと。「彼はB型なんですって」となった時に、集団内において際立って目立つんじゃないか。
ちなみに、私の職場の同僚は数十人いるのだが、女の常でか飲み会で各々の血液型に話題が波及した事があり、とくによく仕事をする連中の血液型を私は知ってて覚えてるわけだ。主にAB0で、AとBが目立つ。 その勝手な印象だけで行けば…、 さあ好き勝手言うぞ。 Bは趣味などに共通性はないが各々そこにいるだけで華やかで明るい雰囲気だ。悪く言えば、頭が軽そうに見える。Aはよく言えば落ち着いた賢い雰囲気、悪く言えばどことなく薄暗い。 他人が間違った時、自分と異なる事をごり押ししてきた時に、「ああ、そう。アタシが悪いんでしょ。いいわよ別に。じゃあそうすればいいでしょ」と直ぐふてくされるのがBで(相手の非難はあまりしないが自分の中の「しかしこうだろう」的意見は実は曲げてなかったりする)、「あいつは頭がおかしいんじゃないか。どうしてわからないのか」と自分の意見の正当性をいつまでもゴリゴリ(仲のいい仲間内だけで)言い続けるのがA。 A型には「気のあう」B型の、それぞれ仲良しがいたりするのだ。 それというのも、どうも仕事において意見が合わない時のA型同士というのは難しいっぽい。自分の意見を譲らない上に、正面きってはあまり論争せず、その場では一理あるような顔をして頷いておいて人影が失せた途端「あの人の言ってる事おかしくない?」と言い出すことが頻繁だからだ。「何故言われたその時に言わないのだ?」と物凄く悩まされる。最中はうんうんそうだねと頷いていたんだから、本人は自分の言分が理解してもらえたと思っただろうに、その本人がいなくなってから徐に反論してどうしようってんだと頭を抱えた事数知れず。 「あの人は自分の考えややり方を絶対に曲げないでしょ!自分だけは正しいと思ってるんだから。おかしいわよ!良いやり方があったらそっちに変えるべきじゃないの!?どうして自分のやり方がおかしいと少しも思わないのかしら?」とお互いに相手を評して言ってるのが、傍目には可笑しい。しかし間に挟まれているので笑ってばかりもいられない。 「自分は小心で気が弱いから面と向かってはっきり言えないの」と言うので、では代わりに調整しようと走り回って「なんで言っちゃうの!」と怒られた事数知れずだ。なんで言っちゃだめなんだ?批難や誹謗中傷でなく自分が正当な意見を言っていると思っているのなら、言いたい事を言いたい相手に伝えないでどうするんだと思う。そこで「じゃあなんで私に言ってくるんだ?要求している事がさっぱりわからん。相手にどうして欲しいんだ」と思い悩んでいたら「ただあなたに言いたいだけなのよ。聞いてウンウンって言っておけばいいの」とB型に言われる。 なんじゃそれは。わけがわからん。 Bはあまり相手を強く非難しないが、苦手な相手と会話する時には逃げ腰なのが傍目に明らかだったりし、いなくなると一人で苦笑いしている事が多い。さりげなくさらりと突っ込まないと本当に感じている事をはあまり言わない。真意をしつこく問われるのを嫌う。それぐらいなら自分が折れたほうがマシ、とにかくめんどくさいらしい。くるくると働き者だが、他人との葛藤においては逃げ回る。Aは影ながら強く批難するが、直後でも件の相手と笑って和やかに世間話ができる。その場に相手がいなくなるとナチュラルに批難を再開するので、「なんだ?なんだ?嫌いじゃないの?嫌いなの?」と翻弄される。 だまーって見ていると、一見Bの方が無邪気で何も考えてなさそうに見えて、その実大人の対応に感じる。 B「人と人がいれば誰かは我慢しなければいけないのよ」 A「自分がおかしいと気づかないあいつはおかしい。私の正しさが何故理解できないのか理解できない」 我が職場におけるABの基本はこんな感じだ。ちなみに私はいつも色んなところの板ばさみになって困り果て一人キュウキュウ鳴いている。八方美人の辛いところだ。「じゃあ八方美人やめろよ」と思わないでもないが、かといって「では」とやめられるほど極端に一方に正当性を認められないのだ。つい各々一理あると思ってしまう。
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