非日記
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上司「それは言いましたッ!」 私「私は聞いてませんッ!言うたんか!?(その場にいた人間に聞く)」 人様「うんまあ」 私「じゃあ私だけが聞いてなかったんかッ!?それでは何もかも全部私が悪いんじゃないかッ!人が話したことをちゃんと聞いてないなんてどういうことだ!」
…笑われました。イエー。 言い訳するなら、だって私は大体は単に怒っているのであって、別に必ずしも人に向かって怒ってるわけでもないのよ。 「あら私が間違っていたの?」等と、はっとして殊勝になったり反省したりなどしません。自分が悪かろうと「犯人は俺か!」と怒り続けます。自分の悪さに怒り狂っては周囲に宥められて生きてきました。なんて困った人間でしょう。自分を責めるというと、「俺が悪かった」って感じじゃんか。違うのよ。「俺が悪いだろ!」は「おまえが悪いだろ!」と殆ど同じノリやねん。自分と他人の区別がイマイチついてないところがある事が赤裸々になってしまうというか。あのな、違う人間だという事はわかっている。他人を自分といっしょにしてごっちゃにしているわけではありません。自分を他人といっしょにしてごっちゃにしてしまう事があるだけです。 それにしても阿呆すぎる。
さて突如思い立って旅行に行ってきました。一週間ぐらい前。 (ちょっとエロいビデオを見るのに夢中で日記を書くどころでは) せっかく御友達に会いに行くのに一人で行って間がもたなかったら寂しいので、人を誘っていってきましたよ。
「私はいつも一人でオマエにつき合わされているような気がするが?」と思う人もいるかもしれないが、厳密に思い返していただければ、私が「お友達の家に」「用も無いのに」「一人で」「遊びに」「行った」事は一度も無かった事に思い至れるはず。常に「目的地へ行く途中、もしくは帰りに、通りすがるついでに寄った」はず。 何故そんなに断定できるかというと、私は、たとえそうしたくとも、「御友達の家に」「用も無いのに」「一人で」「遊びに行く」ことはできないからだ。できない。誰がなんと言おうと、できないと言ったらできない。無理。無茶。無謀。銀行強盗に素手で立ち向かう幼児みたいなもの。 それは一介のフリーターがNASAで宇宙飛行士になろうとするようなものだ。確かに本気でやろうとすればできるのかもしれないが、「それができるような自分ならば、既に大企業に就職して結婚して子供が三人いて愛人も五人はいるであろう」とフリーターは言うかもしれない。 「頑として向こうから遊びに来るのを待つ」か、「大した事でなくとも用事を捏造する(可能であれば充分な理由が望ましい)」か、「誰か行きたい人を確保し、それに付き合うという体裁を整える」などの小細工が必要だ。私が何かを借りたら借りた事に安住してなかなか返そうとしない遠因は、まずここにあると言っても過言ではない。さらに「もう要らんので捨てろ」と言われてもしつこく返そうとする遠因もここにあるっぽい。
私「あなたから借りたホニャララを返さないといけないし」 人「そんなの郵送してくれればいいわよ」
↑なんという効率的で合理的で親切で思いやりのある事を言うのでしょうね。しかしこれは私が言いたい事が全然伝わっていない好例であります。 これを恥を忍んでわかりやすく、私の発言を相手の母語に、相手の発言を私の母語に翻訳しますと、大体
私「あなたのおうちに遊びに行きたいと思います」 人「来るな。貴様に用はない」
↑と、このようなやりとりになっています。冷酷非情。この冷たさに耐える私は凄く健気な気がする。 「ちょっと何それ!」と思うかもしれないが、私の脳はナチュラルにはこう。二重三重にひねた結果、相手の発言に関してのみ本来の深い意図のない素直な意味を取る事に辛うじて成功してると自負している。天才的な言語学者のようだ。
このような事はよくあります。私と人間との付き合いはほぼ常にこうであると言っても言いすぎではありません。一般的な優しさには満ちていても、私に対する思いやりが多少欠けているように思われるが、その場で真正直に自分の解説ができるようならば苦労ないのであるからして文句は言えない。 まあな、「当然同じ人間のように扱ってくれるのね。私ったら普通っぽい!」という喜びもあるんだ。英会話を勉強して異国の人に話しかけたら会話ができた「やるじゃん私☆」的喜びというか。だから気にせんでよい。 「わかってくれ」という気持ちと「わからんでくれ」という気持ちが常に葛藤してるねん。もうどっちでもいい。どっちも似たようなものだ。
大体生きている人間なのだから、一義的に「こう来たらこういう意味」と必ず決まっているわけでもない。自分に限らず人もそうだろう。一見全部日本語のように見えながら、異国の言葉が混じっているだけだ。 完璧に公用語のみを喋る必要に迫れると口数が少なくなります。それは欧米人に咄嗟の時に「Ouch!」と言わずに「あっ」と言えと要求するようなものであって、とっても難しいのです。そこで知らん人がいると途端に大人しくなります。別に意図的に猫を被っているわけではありません。何をどう言えば「正しく通じる」のか煩悶し、相手の用いている言語を解読しようと頭をふるで回転させて忙しいのだ。
今回も飲み屋のおっちゃんが言ってましたね。 「私とこの人達はかかわりのない人間よ、一緒にされたくないわという醒めた空気をかもし出している(賑やかにオシャベリしている皆に対して)」 「なんだと?」で反論ばりばりです。それならば私はここにいない。誰が発起人だと思う。実は私だ。アルコールが回って頭が痛くて吐き気がして気持ち悪くなってきているのに耐えているのだ。一緒にされたいので、会話に加われない状態でも隣に座ってるんだ! もしおっちゃんが私の伴侶だったら持ってるグラスを壁に叩きつけ、「ならば私は帰って寝る事にする。人間は皆死ねばいい。まずおまえが死ねばいい」と正直に言うかもしれないところですが、幸いおっちゃんは行きずりの他人なので微笑んで「そんな事はありませんよ」と正しい日本語しか言わないのだ。
うんにゃ、おっちゃんの言いたい正しい意味はちゃんとわかっていますよ、私は天才ですからね(まだ言う)。親切にも「もっと一緒に楽しんで。一人で隅っこに引っ込んでいるアナタがつまらなく過ごしているのではないかと気に掛かる」とおっちゃんは優しく言ってくれているのだ。余計なお世話だ。自分の事だけ考えていろ。いや、これは私の方言だった。えとね、「あら心配なさらないで。あなたの気持ちは嬉しいけれど、私も充分に楽しんでいますのよ。気にさせてしまって申し訳ないですわ」かな?うん、こんなもんじゃないかしら。 文化というか人種の壁…というか人間の孤独に一人挑む私。地味だが壮絶。こんなムーンサルトばりのアクロバティックな処理が目の前の女の脳内で黙々と行われていようとは、おっちゃんは知る由も無かった…。 続く。
今回も私は、もしも誰も都合がつかなかったなら一人でビジネスホテルにでも泊まって、一人で遊んで(近似「さ迷って」)帰るつもりで、はがきで出した「遊びに行きたいと思います」に二週間近く返事が無くとも黙々と気にしないでいたのだ。行くとしたならば行く。旅行に行くのが本来であって、ついでに人に会おうとするのは「ついで」である。この決意がなければ人に呼びかけたりなどできない。この決意のため、誰も都合がつかずとも「誰も都合がつかないなら一人で遊ぶのなんかやーめた」等と退く事はできない。「おまえは人の反応で自分の行動を左右されるのか!自分の選択を人の所為にするのか!」などと自分になんと謗られるかわかったものではありません。もう行くしかない。ええ自分を騙しているかもしれませんとも。それがどうしました。何か問題でも?私は目的を達するためなら手段は選ばない。回りくどいが直裁だ。自分に「わかった」と言わせ了承させるためなら嘘も方便、めんどくさくても手続きが必要だ。
が、幸いにして一人確保し、向こうも都合がついたので意気揚々と行って来ました。 しかし思ったとおり、くっちゃべってる間に終った。いつも何をしたという事もしてないのに、喋ってる間に終る。
私のメインはそれだからよいんだが、辛うじて私はタマモ公園でお堀で魚が跳ねるのを一時間眺め、リツリン公園で鯉に餌をやってアイス食って抹茶を飲むなどしてさ迷ったというのに、某姐さんにいたっては高松まで行きながら、観光らしい事と言えば讃岐うどんを二杯食っただけである。 家主の姐さんは「せっかく来たのにどこにも連れて行けなかった」と申し訳なく残念がっていたが、「いや、Aさんはあちこち精力的に観光して疲労するよりは、あまり移動せずに美味いもんでも食ってホテルで温泉にでも入ってぐだぐだしてる方が好きなような気がするから気にせんでええように思う」と私はまた勝手にフォローしておいた。文句があるならベルサイユにいらっしゃい。 私「MさんやSさんは時間をいっぱいまで使って有名どころは全部回りまくる方だと思うけど」 M「そう。行った地方がテレビに映ったら、ココも行った、アソコも行った、全部行った、行ってないところはないって感じ」 私「私は行った事のある地方がテレビに映ってたら、こんなところがあったのかって感じ」
その黄砂で霞んだ瀬戸大橋しか見れなかった某姐さんが半年近く前に「Kさんが戻ってきてるなんて知らなかったよ。高松に遊びに行きたいなぁ」等と一言漏らしていた事を思い出したので、「ところで讃岐にはマッチョ通りがある」と一言言っておびき寄せようとしたのだが(私に言いたいことを素直に言えというのは「鼻からうどんを食え」というぐらい顔を顰めざるを得ない要求であり、そんな鼻が痛い思いはしたくないのが当たり前の人情だ)、実際にマッチョ通りに行くためには船に乗らねばならず、しかも御友達を謀るのはどうかという良心の呵責により(「しかし私はけしてマッチョ通りには筋骨たくましいマッチョがそぞろ歩いている、等という真っ赤な嘘は一言も言っていない。まあ、そのような面白い事を想像したなんて、オホホ。そちらが勝手に何やら誤解したのであって、それは私の責任ではないわね」という逃げ道を確保しておくことにはナチュラルに余念がない。もはや無意識)、「マッチョ通りって何!?」という食いつきに、「真実を知ったらガッカリすると思う」と正直に白状してみる。 ついでに姑息な罠を張った事が良心に咎めるあまり、自分が遊びに行きませんかと誘ったくせに「来ない方がいいと思う」とまで返信したが、思った事を思ったままについ口走る私の正直さに気を使わず(たぶん)、私は幸運であった。
言いたい事を言おうと鋭意努力している間にハガキ一枚に収まらなくなって二枚に膨張し、しかしその無駄にくどくどしい言い回しの中から簡潔には一行で済むのかもしれない要旨を抜き出した某姐さんにも乾杯。 皆頭がよくて助かる。 皆素晴らしく大人だ。感動的ですらある。まるで網の目のように張りめぐらされた罠を巧みに掻い潜っているかのようだ。「よくぞ我が策を破った。見事だ」という気分になる。そんな馬鹿な真似をしてる前に私が立派な大人になれば話は早いのかもしれないが、正直、無理な気がする。しかし諦めてはいない。昨今「夢をかなえる為に努力することが云々」とかよく青少年向けにも大人向けにも言われ仇に人を苦しめているが、たとえ叶わないとしても夢には抱く事自体に価値あるものもあるのだ。私はそう思うのであった。 完。
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